『ラスト・サタデー』

1/1
前へ
/1ページ
次へ
今日は6月最後の土曜日。僕と君と最初で最後のデート――その日だ。 初めて君に会ったのは、3年前――6月最初の土曜日だった。 関東地方は既に梅雨入りしていた。夕立が鎌倉地区を襲った。雨粒が激しく店のガラス戸を叩いた。 ふと、窓越しに人影を感じた。白い背中が見えた。雨宿り――というよりも、まるで鶴が湖畔で羽根を休めているよう見えた。 導かれるように扉を開け、声を掛けた。 「凄い雨ですね、よかったら中へ・・」 目を見た――綺麗な目をしている――それが最初の印象。 「えっ?すいません・・でも準備中って・・」 「えっ?!あぁ、いいんです、気になさらず!」 パタリと扉を閉め、中へ招いた。タオルを貸し、君はそれで遠慮がちに濡れた髪を拭いた。 「すいません、タオルまで・・」 「いえいえ、急に来ましたからねぇ、変な天気です」 「あの・・」 「はい・・」 「せっかくなんで、コーヒー注文してもいいですか?」 「あっ、別に、いいですよ。そういうつもりで声掛けたわけじゃないですから」 「あっ、そうではなくて、私、前からこの店気になっていたんです。行こう行こうと思っていて。今日がその日でした」 「あぁ、そうなんですか、ありがとうございます。今から準備します」 カウンターで準備を始めていると、やがて雨は何事もなかったかのように引いた。すると今度は一転、夕映えが姿を見せ、店のガラス戸を射した。 「雨上がりましたね・・綺麗な夕日・・」 コーヒーを一口し、君は眩しそうに目を細めた。夕映えが君の白い顔を赤く染めた。薄らと浮かべたその笑みは、どこか亡き妻を想起させた。 小一時間ほど話しただろうか・・土曜の夕方にもかかわらず、他に客はなく、穏やかな時間が流れた。 初めて会った筈なのに、その会話は途切れることなく心地よく繋がった。 三杯目のコーヒーを飲み終え、扉の方を指して君は言った。 「あの、すいません。アルバイト募集してるんですか?」 入り口に貼ってある手書きの募集広告の事だ。 「あ、あれですか?はい、一応。今日はこんな暇ですけど、有り難い事に結構最近忙しくて・・・」 僕は頭を掻いた。 「ちょっと詳しくお話聞けないでしょうか?」 「えっ?!ええ、構いませんが・・」 僕は目を丸くした。後日、改めて面接をした。 「へー、W大卒・・優秀なんですね!」 「いえいえ、演劇三昧であまり授業には・・・」 君は手を軽く横に振り、苦笑した。だが、一転、目の色を変え、キッパリと言った。 「実は、女優になる夢を追ってます」 「女優・・・夢・・・」 「いい・・と思います。夢か・・」 「はい、夢です!」 澄んだ瞳は道を志す者が放つ力を感じさせた。 「鎌倉に住んでいるんですね」 「はい、どうも都内は苦手で・・海が好きなんです。実家は新潟、柏崎です」 その後、条件等を擦り合わせ、採用を決め、週三日程、君はこの店で働くようになった。         気心が知れるにつれ、互いの素性を話すようになった。 「マスターは何故この店を?」 「まぁ、君じゃないけど、夢・・かな・・」 鎌倉に小さな茶店を構える――結婚当初からの妻との夢だった。 「その写真、奥さんですか?」 カウンターの片隅に置かれた小さなフォトフレーム、元気な頃の妻がいた。 「うん」 「綺麗な方ですね」 「ありがとう、そうだな、まぁ、綺麗というか、素敵な人だった・・」 店を構えて2年程過ぎ、ようやく軌道に乗りかけた頃、君は急な病に犯され、そのまま逝った――湖畔から鶴が旅立つように・・ 「マスター?・・マスター!」 「えっ?!あぁ・・ごめん」 気が付けば、ぼーっと君の顔を覗いていた。 君が働くようになり、店に彩りが戻りつつあった。高校時代、地元の海岸沿いの鮮魚店でバイトしていた君は魚介に明るかった。洋風ものばかりの店のメニューに手巻きや海鮮丼や魚介サラダが加わった。君の包丁裁きは見事なものだった――亡き妻がそうであったように・・・ 次第に僕は君に惹かれていった。妻の面影を纏う君に惹かれているのか、君自身に惹かれいるのか・・・それは曖昧で、穏やかで心地よいものだった――そう、その時はまだ、それは梅雨の中休みように穏やかでしっとりとしたものだった。ただそれを君に悟られては行けない――そんな気もしていた。 「今度、私の芝居見に来てくださいよ!」 「そうだね、是非」 一年が過ぎた頃、君と僕はそんな約束を交わした。その日僕は、横浜のとある小劇場にいた。公演の後、僕は君を楽屋に訪ねた。しばらく歓談していると一人の男性が入って来た。 ”誰?”のような顔を男がしたので、君は僕をバイト先のマスターであると紹介した。僕が軽く会釈をすると、男も軽く頭を下げ、事務的用件を君に伝え、部屋を出た――帰り際、チラリと振り返る男の視線を感じた。 「実は、彼なんです・・」 君の何気ない一言――その時、僕の中で曖昧なものの殻が割れ、それははっきりとした輪郭を持って現われた――僕は君を、思っている――疑いようもなかった。 2年を過ぎた頃、時折僕は君のその横顔に悲しい影を見るようになった。 その日、君は閉店後の店の暗がりの中で皿を拭きながら泣いているように見えた。 「何か、あったの?・・」 「いえ、別に何も・・」 「そう・・でも最近、元気ないようだし・・何かあったら相談に乗るよ」 「大丈夫です・・何でもないです・・」 悲しみの影を多分に纏った君は、それでも尚、僕に一切を語ることはなかった――ただ、ただ無力感に苛まれた。 奇しくもそれは、3年前、君が初めて店を訪れた6月最初の土曜日の事だった――仕事中、君は倒れた。 診察室から出てきた君は薄らと悲しい笑みを浮かべた。店に帰るとようやく君は重たい口を開いた。 「実は、妊娠しています」 頭に稲光が走った。 「えっ?!ひょっとして、あの男(ひと)?・・」 コクリと頷き、 「別れましたけど・・」 ポツリと言った。 別れた――というよりも、君が身を引いたのだった。 「そんな簡単な話じゃない!ちゃんと事実を伝えた方がいい!!」 僕はムキになった。 「それは出来ないです・・」 君は頑なだった。 「「なら、僕が言うよ!今からでも!!」 「止めてください!これは、私の問題です!マスターには関係ありません!!」 彼女が涙声を上げた。 関係ない――その言葉はグサリと胸に突き刺さった。 同時に、君への思いが、最早隠し切れない程に肥大化している事に気付かされた。 「・・・関係・・・あるさ・・・」 咄嗟に口から漏れた。 「えっ?!」 「いやっ・・何でもない。ごめんね、感情的になって・・」 「いえ・・私こそ・・」 君は取りなし、事情を語り出した。 その男は、とある映画のオーディションを受け、合格し、端役ながら役が付いたのだという。話を終えると涙顔のまま君は言った。 「ようやく掴んだ夢なんです。だから叶えて欲しい、それには、こうする他なかったんです・・」 「全く、君って奴は・・」 「彼の事は、まだ好きなんだろう・・」 野暮な質問だと知りながら、つい訊いてしまった。君は上を見て鼻を啜った、涙が頬を伝った。気が付けば、僕も泣いていた。 どれくらいの時間そうしていただろう、しばし静寂がはしった。 「でも、ホントどうするのさ・・甘くないぜ、分かると思うけど・・」 「田舎へ帰ろうと思ってます」 「田舎?新潟?」 「はい」 「もう決めたの?」 「はい。いっぱい泣いて、いっぱい悩んで・・それで決めました・・」 涙を拭いて、きっぱりと君は言った。久しぶりに見た、晴れやかな表情だった。 「そう。君の人生だからね」 「なので、急で申し訳ないですが、6月いっぱいで店も辞めさせてください」 「6月いっぱい・・最終日はいつにする?」 「6月29日の土曜でいいですか?」 「うん。了解した。ただ、その日は有給にさせてもうらうよ」 「有給?いいんですか?」 僕は、腹に力を込め、意を決して言った。 「うん。その変わり、その日、その土曜日は、俺にくれないか?」 「えっ?どういう事ですか?」 「俺のオンボロ車で海まで行こう・・・江ノ島でデートしないか?」 「海・・江ノ島・・いいですよ・・」 「江ノ島・・・まっ、近場だけどね・・」 僕はホッとし破顔すると、君もまた笑った。 そして今日を迎えた。6月のラストサタデー、その昼下がり、鎌倉地区は久々の梅雨の晴れ間が広がっていた。 僕の心にある思い――しまっておくべきか、否か――成り行きに任せ、今日は楽しもう、そう思った。 ガランと扉が開き、君が姿を見せた。白いワンピースにサマーブルーのカーディガン、そして小麦の麦わら――可憐だ・・思わず引き込まれた。 「今日はよろしくお願いします!」 君は、薄らと笑い、カーテンコールを切った。 「あぁ、こちらこそ!」 ”ボォワァ―――ン” 咳き込むようなエンジン音、15年も乗っている老犬、黄色のオンボロワーゲンは頼りなく発進した。 「なっ、言った通りのオンボロ車だろ!」 「いえ、味があっていいですよ!」 しばらくして湘南海岸が広がった。陽差しが海岸を照らし、キラキラと光っていた。サーファーが気持ちよさそうに波と戯れていた。 「この海も見納めかぁ・・」 君が呟いた。車窓に入る風が君の髪を靡かせた。 「確か、最初会った頃はショートだったよね・・」 「ハイ、そうだったと思います」 長くなった髪はそのまま3年の年輪を感じさせた。週3日程度とはいえ、3年共に過ごしたのだ。 「あの、お願いがあるんだけど・・」 「なんですか?」 「敬語は”なし”でいいかな?」 「えっ、いいですよ・・あっ、いい・・よ」 そう切り出したものの、ここから会話が途切れた。信号を待つ間、江ノ電が横を通り過ぎた。その時間がやけに長く感じた。君はずっと外を見ていた。沈黙を抱えたままワーゲンは走り、やがて先に江ノ島が見えた。 「腹減ったね・・」 ようやく沈黙を切った。 「えっ、ハイ、あっ、うん」 「ごめん、別にいいよ無理しなくても・・そうだ、演じていると思えばいい。今日一日、君は僕の恋人!」 ”恋人”訳の分からぬ事を口走ったと思い、冷や汗をかいた。だが、君はケラケラと笑った。 「そうね・・そうするわ!」 ワーゲンを降り、江ノ島へ向かった。江ノ島大橋を並んで歩く。渡り終えると江ノ島神社へ続く参道へ、晴天の土曜とあって賑わっていた。 途中、小さな海鮮丼屋に寄り、しらす丼を注文した。 「そう言えば、こうして面と向かって食事するのは、初めてだね」 「うん、マスターはいつも横にいたからね」 確かにそうだ。僕と君の位置関係はいつも横だった。 「うん!美味い、しらす丼!!」 「うん、久しぶりに食べた」 「久しぶり?」 「前回は妻と来たときだから、5年前かなぁ」 「意外!」 「案外来ないもんさ。一人で来るのもなんだしね・・」 「しらす丼、メニューに入れてみたら」 「そうだね、いいかもしれない」 ”君が作ったらいい”喉元まできたが、留めた。 店を後にし、神社へ向かった。赤い鳥居をくぐり、階段を上る。陽差しが身体を火照らした。互いに小息を切らして境内に辿り着いた。 並んでお参りをした。横を見ると君はまだ目を閉じていた。 ――君は何を祈っているだろう、そんな事を考えた。 シーキャンドルを臨む公園から湘南海岸を臨んだ。暫く無言のまま眺めていた。 「今日の海は優しいね・・」 君がポツリと呟いた、僕はコクリと頷いた。穏やかな時間が流れ、神社を後にした。帰りの江ノ島大橋、空は微かにオレンジ色に滲んでいた。僕は、こころの中のさざ波を聞いていた。 江ノ島が遠のいていく。車は鎌倉へと向かう。君との一日は終わりに近づいてる。君は名残惜しむように海を見ていた。このまま終わるのも悪くない――このままなら3年は柔らかく香しい記憶に留まる。 だが、僕は決断した。 暮れなずむ海岸を遠くに臨みながら、言った。 「あの・・あのさぁ・止めないか、新潟帰るの・・」 「えっ?!」 「俺じゃダメかな・・」 「・・・・」 「これからもずっと、そばに居てくれないか、ずっと一緒に歩いてくれないか・・」 「・・・・」 「きっと初めからそうだった。君を思っていた、妻の影ではなく、君を」 「・・・・」 「受け取ってほしい、この思いを・・・この心を・・・」 一筋の涙が君の頬を伝った――綺麗な涙だと思った。               了
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加