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暗い部屋
写真機の起源とされるカメラ・オブスキュラは、ラテン語で「暗い部屋」を意味し、小さな穴から指す光が像を結び投影する仕組みのことである。
当時は暗くした部屋の壁に穴を開けて撮影をしたそうだが、クッキー缶の内部にフィルムを貼り、小さく開けた穴から光を入れて写真を撮るピンホールカメラの仕組みと同じである
(クッキー缶とフィルムが手元にあれば試してみるといい。)
写真の登場による芸術的革新の裏で、失業した画家たちはお先真っ暗な人生を悔いたが、逆に人類はあることを成し遂げた。
はじめて"目を瞑る己の姿"を見ることができたのだ。
とはいえ現在、僕の目の前が真っ暗であるのは、決して目を瞑っている関係ではない。
念のために言っておくなら、それは物理的な暗闇という意味であって、画家たち同様「お先真っ暗」的な未来を示唆する精神的比喩でもない。
校内で噂されている”あるもの”を探しに写真部の部室に忍び込んで物色していたものの、突然部員が帰ってきて咄嗟に掃除用具入れに隠れ、出られずにいることが関係していなくもない。訂正しよう。どうやら比喩的な意味でも「お先真っ暗」な状況の様だ。外から女子部員たちの会話が聞こえる。
「ねえ、このカメラの噂って本当かな?」
「”望んだものが見えるカメラ”でしょ?ないない、胡散臭すぎるよ」
「そうだよね。今時フィルムカメラって…どう考えても無駄に重いだけのガラクタだよね。錆びてシャッター降りないし、フィルムだって入るかどうか…」
「てか、写真なんてスマホあれば一発じゃん、フィルムカメラでどうやってインスタ上げんのよ、wi-fiついてねぇし…」
後半は噂には関係ないが、この調子で散々フィルムカメラをこき下ろした二人が写真部員だというのだから驚きである。
ーーガンッ
重いものが机に乱雑に置かれた音だろうか。おそらくカメラだ。オンボロでポンコツらしいとはいえ扱いが雑である。
ーーキンコンカンコーン
下校のチャイムの後に「夕焼け小焼け」が聞こえる。6時を回ったのだろう。
「やることないしカラオケいかない?」
「いいね!いこいこ」
用具入れは狭く、相変わらず暗い。
外の様子は伺えないが耳をすませば何となく状況は読めた。
ーーギギッギュ、ギギギ
椅子が床をひきづる音に続き、ガサゴソとカバンに何かを詰めているのだろうか?
帰り支度をしているのかもしれない。あまり几帳面ではないことが音からでもわかる。
「…あっちょっと待って」
女子部員の一人がそこで話を区切った。ガサゴソとまた鞄から何か探している様だ。
「汗かいちゃったから肌着変えていい?」
ちょ、ちょっとまってくれ。耳を疑った。今から着替えるというのか。この場で?うら若き女子高生の着替えが今、この場ではじまってしまうのだろうか。
「またおっきくなったでしょ?発育良すぎ」
「もう!どこ触ってんのよっ!」
…という「またおっきく〜」からはじまる一連のセリフは、あくまでも僕の脳内で再生されている想像上の会話である。
もしそんなお約束が始まってしまったら大変だ。僕がこの掃除用具入れに入っていることがバレた場合、その後のリスクが爆発的に上がってしまうのではなかろうか。それは非常にまずい。不安とも期待とも取れぬ心拍数の上昇を感じる。まあ、どのみち外の様子は見えないし、待つこと以外に選択肢はない。
それに僕は暗闇で待つことがそれほど嫌いではなかった。
「暗闇はね、怖がるものじゃない。そっと寄り添う友人の様なものなの」
不意に浮かんだのは母の言葉だ。幼い頃、交通事故にあった僕は生死の境を彷徨い一命を取り留めた。病室での夜闇を怖がる僕に母はそう優しく言って聞かせた。
目を閉じてみる。
暗闇である状況が変わるわけではないのだが、目を閉じた方が不思議と暗闇の中では見えるものが多い。幼い頃の記憶、母の優しい笑顔。幼馴染のあの子。幼い頃から大好きだったあの子の表情がそこには見えた。僕の手をとり、三つ編みにした髪、麦わら帽子、大きな目、笑うとできるエクボ、その全てが今この場に存在していると錯覚するほどである。胡散臭いカメラなどなくても目を瞑れば彼女に会えた。それでも尚、噂に縋ってでも見てみたいと願うものが僕にはあるのだ。
ーーシューッスッ
布と布が擦れる音、制服を着終わった合図と見ていいだろう。
その証拠になにやら女子部員二人の会話が聞こえるとガラガラガラと引き戸の音がして、ピシャリと閉じる音の後、足音とともに二人の声が遠のいていった。
僕は胸を撫で下ろす。
静まり返ったとはいえまだ誰かいるかもしれない。人の気配が完全になくなったことを確認しつつ、半分賭けの様な気持ちで警戒しながら掃除用具入れから出る。
(どうやら誰もいない様だ)
テーブルの上に乱雑に置かれていたカメラを手で触る。手に持てば鉄の冷たさがひんやりと伝わり、ずしりと重さを感じる。新品であればいいカメラなのかもしれないが錆びていることは手触りですでにわかる。ついに手に入れた。これが忍び込んでまで拝借したかった噂の”望んだものが見えるカメラ”だ。噂によれば見えるものは人それぞれ。未来が見える人もいれば、過去が見える人もいる。望めば意中の相手のあられもない姿だって…いやその話はよそう。とにかく、見えるものは万華鏡の様に人それぞれだが”望んだもの”が見えるらしい。
これさえあれば僕の”念願”が叶うかもしれない。
カメラを覗いてみようとした、その時だった。
ーーーガラガラガラ
背中で部室のドアが開く音がした。
「やっと見つけた、こんなとこにいた!」
明らかに怒った様子で声が飛んでくる。
背中越し、見なくても声でわかる。
愛する恋人の声を間違えるわけがない。
「愛する恋人」なんていうと少しキザかもしれないな。パートナー、相棒、なくてはならいない人、そして僕をいつも支えてくれる人だ。
「もうっ!すっごく探したんだから。もう帰るよッ」
小言を続ける彼女に僕はレンズを向けた。ファインダー越しにその表情が見えた。
そう。見えたのだ。幼い頃、事故で失明し、
目の見えない盲目の僕に彼女の顔が見えたのだ。
「…見えるの?」
笑顔と涙がない混ぜになった表情で彼女が言った。
ファインダー越しに彼女は怒ったり泣いたりコロコロと表情を変えた。
あの幼き日の記憶のまま、大好きなあのエクボを作って。
それは、暗い部屋の小さな穴から差し込む月光で撮像したささやかな希望のような
束の間の喜びを噛み締め、分かち合う。
目を閉じた彼女をはじめて見た僕は、唇の重ね方をまだ知らない。
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