ジョセフィーヌの戦い

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ジョセフィーヌは暗闇から様子を(うかが)っていた。建物の陰。光を浴びてのろのろと動く大型の怪物が一匹……いや二匹。一匹はほとんど動いていなくて、気づくのに遅れた。駆け出そうとしていた彼女は慌てて身を潜める。 危ないところだった。まだ隠れていよう。 彼女は身体を低くして時が過ぎるのを待つことにした。 ジョセフィーヌはつややかな黒い髪にしっとりとした光沢のある同色のドレスを(まと)っている。光が当たれば、艶やかなその姿があらわになってしまう。 食べるものには困らない生活だったが、彼女の腹には子供がいる。できれば良質な、栄養のあるものを食べたい。買い物も自炊も、彼女とは無縁だった。怪物の食料をこっそりかすめ取るだけで十分生きていけるのだ。同じ一族の者たちも皆そうしている。 ただひたすらじっと待つ。 先程から動きの激しかった一匹が移動した。もう一匹は固まっている。 今だ。ジョセフィーヌは駆け出した。怪物から見えないように。いい匂いのする食べ物目がけて。 罪悪感は微塵(みじん)もなかった。食べなければ死んでしまう。 あともう少し、という時にジョセフィーヌは視線を感じた。 見上げた瞬間、怪物と目が合った。 この瞬間はいつも永遠に感じられる。ジョセフィーヌの何十倍、いや何百倍も大きな怪物の、その割に小さな目がよく一族を(とら)られるものだと感心する。もちろん感心している場合ではない。 逃げなければ。 大型の怪物は咆哮(ほうこう)をあげた。ジョセフィーヌは走り出す。後方で、怪物が振るった鈍器が地面に当たる音がした。風がくる。その前に、また速度を上げる。 足の速さには自信があった。一族は皆足が速い。見つかったって逃げ切れればどうということはない。 だが、怪物が魔法の杖を手にしたのを見てジョセフィーヌは青ざめた。 氷の風魔法を使うつもりだ。あれは攻撃範囲が広い。おまけに毒を含んでいるらしく、身体に触れただけで仲間の動きが鈍り、やがて死に至る姿を彼女はこれまで何度も見てきた。 速度をいっそう速める。この調子なら逃げられる、と思った途端、視界の隅でのそり、ともう一匹の怪物が動き出した。 この世界では判断の遅いものから命を落とす。ジョセフィーヌは大技を使うことを決めた。ドレスの裾を持ち上げ、両手に広げる。 怪物の頭上の遥か上、巨大な建物の屋上。そこを目がけて、彼女は飛んだ。 屋上に着くと息つく間もなく走る。体力を消耗するが、間一髪のところで氷の魔法から逃れられた。 ジョセフィーヌは再び闇の中に戻った。怪物が建物の隙間からあちこちのぞいている。例え姿を見られてもこんなところまで入って来れまい。建物が大きければ大きいほどその陰は安全な空間だ。 彼女は胸を撫で下ろした。逃げられたのは良かった。しかし全力疾走したせいでまた空腹感が募ってきている。 それからはただひたすら待った。1時間、2時間、半日が過ぎ、やがて怪物はいなくなり、世界は闇に包まれた。 もう一度、あの食料を手にするのだ。 邪魔する者がいなくなり、ジョセフィーヌはようやくお目当ての食料にありつけた。そこそこ満足し、暗闇に戻ろうとした時、黒山の一団が目に入った。仲間が何かに群がっている。いい匂いがする。つられてジョセフィーヌもふらふらと集団に加わった。 黒山の集団が(むさぼ)る、その中心にいたのはかつての夫だった。お腹の子供を残し、そのままどこかへ消えてしまった夫。まさかこんなところで再会するとは。仲間に食べられ、彼の体はあちこち(かじ)られ、もう半分も残っていない。ジョセフィーヌは躊躇(ためら)った後、おそるおそる手を伸ばした。 ごめんね、でもあなたとても美味しそうな匂いがするの。 そこからは夢中だった。これはきっと怪物の罠だろう。わかっているけれど、食べるのを止められない。彼の体を、仲間とともに食べた。 満腹感でいっぱいになったジョセフィーヌは、よろよろと歩き出した。なんだか力が入らない。手足が(しび)れる。 どこかで休みたい。 建物の角を曲がったところに、見慣れない屋敷があった。赤い屋根に窓もあり、誘い込むように入り口が開いている。 なんて素敵なお屋敷。でもこんなの前からあったかしら。ここからも、いい匂いが漂ってくる。 ご丁寧なことに、入り口にマットまである。足をふいて中に入ると、他にも仲間がいるのがわかり、ジョセフィーヌは安心した。食料もある。しばらくここにいよう。 それから、1週間が経った。 突如現れた謎のお屋敷。時間が経つと色んなことがわかってきた。 まず、足元に罠が仕掛けてあり、ジョセフィーヌは身動きが取れなくなった。先にいた仲間も次々と死んで行った。直前に夫の体を食べていたものは死ぬのが早かった。ジョセフィーヌは子供のことを思い、耐えていた。お腹がすいた。しかし屋敷から出れないので何も食べられない。屋敷の食料は既に尽きた。なぜか匂いだけは残っている。匂いだけ。食べられない。狂おしい程だった。 あのとき、夫の体を食べなければ。屋敷に入らなければ。後悔しても遅かった。 もう、ちからつきてしまう。からだが、うごかない。 いやだ、こんなところでみうごきとれずしぬなんて。 わたしの、こどもが、しんでしまう。 ジョセフィーヌは、力尽きた。 「おお!いっぱいかかってるぞ、6匹入ってる」 老人はゴキブリ捕獲器を持ち上げた。 「嫌ですよ、見せないで下さい。そのまま捨てて。あ、新聞紙かなにかに包んでくださいよ」 老婆がぶつぶつ文句を言う。先日新聞紙と殺虫スプレーで戦ったときに彼女だけが奮闘していたので、今回は夫に任せるつもりだった。 老人は大人しくその言葉に従い、新聞紙に包んで捨てて、手を洗った。老婆は明後日の方向を向いて、「もう捨てた?」と確認してきた。 「捨てたよ」 「ゴキブリ対策のは黒いのを置いてるからそんなの使わなくていいのに」 「エサを食べて、巣に帰った死骸を仲間が食べて全滅させるCMのあれだろう?あれは効くんだろうがこっちが効果がわかりやすいからなぁ。達成感がある」 「ゴキブリに達成感を求めないでくださいよ」 老夫婦は笑い合い、さて今日は買い出しに行こうかと相談し始めた。 建物の陰を、一匹の子供が走っていった。白い、脱皮前の姿だ。一連の戦いを見ていた子供は、生き延びるためには新天地に向かうしかないと判断した。老夫婦の住むここは罠が多すぎる。 古いマンションのベランダから、 隣の部屋へ。入ったそこは極楽だった。若い男が大口を開けて寝ている。床に転がったビール缶、髪の毛、ご飯粒、焼きそばの麺、その他なんだかよく分からないもの。流し台にも洗ってない皿が積まれている。 食べ物がいっぱい!おまけに隠れるところもいっぱいある。よくよく見ると仲間もいた。 子供は目を輝かせ、新天地への第一歩を踏み出した。
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