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「…………れ」
言葉の意味を解することはできますが、狼である朧は人語を発することはできません。
朧の躰がつくる影が、その者に届いたか。最期の力をふりしぼり、ずるりと這った身体が草むらから現れましたが、腕だけがせいいっぱいだったのでしょう。白い月明かりに照らされた血濡れた手のみが、朧に向かってふらりと伸ばされます。
「お……いだ、……を」
つぶれた声が、途切れながら聞こえました。
そうして次に、震える指がゆっくりと東の方角へ向けられます。男の言うなにかが、そちらにあるのでしょう。
死にゆく者にかける言葉を持たない朧は、ただ佇んでいました。
やがて手がぱたりと落ちます。それを見守ったあと、男が指さしたほうへ歩き出しました。
そこにあるのは、幹のふとい大木です。古くからあるというだけで、とくに謂れなどがあるわけでもありません。死に際に託すほどのものが、ここにあるというのでしょうか。
ゆっくりとまわりこんだ朧は、そこで歩みをとめました。
裏手には大きく開いた洞があります。古い木にはありがちなことでしたが、ひとつ見慣れぬものが鎮座していたのです。
月の光が届かぬ裏側、闇のなかにあるそれは、ヒトの形をしていました。
洞におさまる程度の大きさ、衣から伸びる手足は折りたたまれています。
ちいさく縮こまるように横たわっているのは、ヒトの子どもでした。
齢を推し量ることはできません。
なにしろ朧は、ヒトの世を知らないのです。
揺らした尾が草に触れ、かさりと音をたてました。
すると、洞の子どもが動きました。あげた顔には、目元を隠すように、細く切った布が幾重にも巻かれています。
きょろりと辺りをみまわすようすをみせたあと、そっとつぶやきました。
「……だれ?」
伸ばされたちいさな手を取る。
あるいは、その問いになにかを返す。
朧はその術を、どちらも持っていませんでした。
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