1 朧 -おぼろ-

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「…………れ」  言葉の意味を解することはできますが、狼である朧は人語を発することはできません。  朧の躰がつくる影が、その者に届いたか。最期の力をふりしぼり、ずるりと這った身体が草むらから現れましたが、腕だけがせいいっぱいだったのでしょう。白い月明かりに照らされた血濡れた手のみが、朧に向かってふらりと伸ばされます。 「お……いだ、……を」  つぶれた声が、途切れながら聞こえました。  そうして次に、震える指がゆっくりと東の方角へ向けられます。男の言うなにかが、そちらにあるのでしょう。  死にゆく者にかける言葉を持たない朧は、ただ佇んでいました。  やがて手がぱたりと落ちます。それを見守ったあと、男が指さしたほうへ歩き出しました。  そこにあるのは、幹のふとい大木です。古くからあるというだけで、とくに謂れなどがあるわけでもありません。死に際に託すほどのものが、ここにあるというのでしょうか。  ゆっくりとまわりこんだ朧は、そこで歩みをとめました。  裏手には大きく開いた(うろ)があります。古い木にはありがちなことでしたが、ひとつ見慣れぬものが鎮座していたのです。  月の光が届かぬ裏側、闇のなかにあるそれは、ヒトの形をしていました。  洞におさまる程度の大きさ、衣から伸びる手足は折りたたまれています。  ちいさく縮こまるように横たわっているのは、ヒトの子どもでした。  (よわい)を推し量ることはできません。  なにしろ朧は、ヒトの世を知らないのです。  揺らした尾が草に触れ、かさりと音をたてました。  すると、洞の子どもが動きました。あげた顔には、目元を隠すように、細く切った布が幾重にも巻かれています。  きょろりと辺りをみまわすようすをみせたあと、そっとつぶやきました。 「……だれ?」  伸ばされたちいさな手を取る。  あるいは、その問いになにかを返す。  朧はその(すべ)を、どちらも持っていませんでした。
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