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朧が普段、躰を休めているのは、洞穴です。
垂れさがった蔦が入口を覆い、内部が見えないようになっています。
自然にできた穴は、中へ入れば大きく、朧が後肢で立ちあがり背を伸ばしたとしても、天井に頭がつくこともないほどの高さがあります。冬へ向けて草を敷きつめてあるので、暖をとることだってできました。
手で蔦を掻きながら足を踏み入れたヒトの子は、次に壁に手をつき、ぐるりと周回しています。
はじめての場所を確認するのは、当然のこと。
自分の目と鼻で安全をたしかめなければ、落ち着くことなどできないと考える朧は、それを静かに見守ります。
「おぼろの家?」
「そう」
「足元がやわらかいのは、なに?」
「くさ、ある」
「生えているの?」
「ちがう。おれ、とった、きた」
聞こえる言葉の意味は解しても、それらを己の考えとして音に乗せることはひどくむずかしく、朧はもどかしい気持ちになります。
けれど、ヒトの子と話をすることは、とても楽しいことでした。
これがきっと「楽しい」という感情なのだと、朧は思いました。
山へ入ってから意を通じた相手は、白蛇だけです。
そのほかに、自我をもつケモノは存在しません。
理由は統治者の不在です。
朧の前にいたヌシが離れて、ずいぶんと時が流れていました。
あやかしではないケモノたちが死に絶えるには、じゅうぶんな時間です。
山が死なずに済んでいるのは、ひとえに水神である白蛇のおかげでしょう。
あやかし狼には一帯を統べる役割がありますが、そうと認められぬかぎりは、繁栄は拝めません。
なにをもって統治とするかはわかりませんが、未だ道半ばであることだけはわかります。自分には足りぬものがあるのだと感じるものの、それがなんであるのかを示してくれる相手もおりません。
本来であれば、教え導いてくれるであろう父は、朧の記憶にうっすらと残っているだけです。
父は、ヒトの手にかかって死んだそうです。
斃れた長に従う者はいません。弱き者は排斥されるのみでした。
どんなふうに山を統治していたのか、幼い朧は知らぬままに住処を追われ、彷徨いつづけて辿りついたのが溝伏山です。
導かれるように山中を進み、水を求めて泉に辿りつき、ちいさな狼は白い水蛇と出会ったのでした。
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