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 借金は近いうちにほぼ完済する見込み、という報告書を胸に、わたしは鏡の前でため息をつきました。背負っていたものが消えたはずなのに、胸は軽くなるどころか重くなるばかり。  天使さまに嘘をついてはなりません。そんな罰当たりなこと、どうしてできるでしょうか。わたしを導いてくださった天使さまに、きちんとお伝えしなくては。それなのに、わたしは笑顔ひとつまともに作ることができません。その意味を考えたくなくて、わたしは痛む頭を鏡に押し当てました。  天使さまを呼び出す直前、鏡の前で何度も笑顔を練習すれば、こわばっていた口元が緩やかに弧を描きます。もしかしたら、最後になってしまうかもしれないのです。笑顔を覚えていてもらいたいと思うのは、乙女心として当然のはず。 「天使さま、天使さま、天使さま」 「ようやっと『血まみれの天使さま』をやめてくれたのですね。そういえば、最近はろうそくも使わなくなっていましたか」 「火事になったらどうするのかと、祖母に叱られました」 「当然の判断です」  このまま軽口を続けていてほしい。てのひらを握りしめていたら、天使さまにお声をかけられました。 「一体どうしましたか。もしかして腹痛ですか。私のことは気にせず……」 「ち、違います。天使さま、もう少し乙女心に気を使ってくださいませ!」 「そう、それがいつものあなたのはず。今日は何だか様子がおかしいですよ」  天使さまったら、どうしてこんなに意地悪なのでしょう。小さな変化にすぐに気がついてくれるのは、やっぱり天使さまだけ。祖母はただ純粋に、借金がなくなることを喜んでいるだけでしたから。 「天使さまのおかげで、借金を完済できそうです。本当にありがとうございます」 「おめでとうございます。借金の多くは不当に利息が膨らんでいるものばかりでしたので、特に私が何かをしたわけではありませんよ」 「いいえ、天使さまにご助言をいただけなければ、あのまま我が家は食い物にされておりました。適切な値段で屋敷や家財を処分できたのも、天使さまのお言葉のおかげです」 「力になれたのなら嬉しいです」  我が家の足元を見ていた皆さんの態度が一気に変わったのですから、天使さまに出会えなかったならと考えると、気が遠くなるような気がしています。 「それから……以前、婚約を結んでいた方から再度婚約のお申し込みがありました。祖母も一緒に面倒を見てくださると」 「……それは、良かったではありませんか」  わたしは唇を噛み締めました。確かに天使さまから見れば、良いお話だったのかもしれません。爵位を返上し、屋敷を手放し、後ろ楯になる実家も結婚の際に必要な持参金もない。そんな女を引き受けてくださるという幼馴染の言葉は、優しさに満ちあふれていたとも言えるでしょう。けれど、わたしにはどうしても受け入れられなかったのです。 「もちろん、お断りいたしました」 「なぜです」 「なぜですだなんて、天使さまったら。わたしはずっと、天使さまのことをお慕いしておりましたのに。天使さまは、こうやって愛を告げるわたしをはしたないとお思いですか。幼いときからの相手への情を忘れて、すぐに心を動かすあばずれだと」 「まさか。けれど、どうしようもないときに手を差し伸べたのがたまたま私だったというだけ。心細かったがゆえに、信頼に似たものをただ愛情だと誤解しているのではないですか」  天使さまの言葉に、胸が苦しくなりました。大切に想う方へ言葉が届かないのだとしたら、どうやって自分の心を示すことができるというのでしょう。ひとりぼっちで震えていたわたしを助けてくれたのは、天使さまだけ。天使さまがいらっしゃらなかったら、わたしはわたしのままではいられなかったというのに。 「どうすれば、天使さまのところに行くことができますか。わたしは、贅沢な暮らしなどほしくはありません。普通の幸せを得られなくてもかまわない。この身を捧げよとおっしゃるのなら、喜んで捧げましょう。ただ、あなたのおそばに置いてほしいのです」 「困ったお嬢さんですね」  天使さまは穏やかに微笑まれました。けれど優しい瞳は、こちらを見据えたままです。そこだけ温度のないガラス細工のよう。 「私のいる場所は、あなたが思うほど綺麗なところではありません。ましてや天国など。むしろ相手を出し抜くことこそが正義だと言われるような世界。あなたのようなお人好しには、地獄にも等しい。それでも私のそばにいたいと、あなたはそう言えるのですか」 「わ、わたしは……」  わたしを愛してくれる祖母の顔を思い浮かべました。祖母は地獄に落ちるわたしを見て、悲しむでしょうか。愚かなことだと嘆くでしょうか。泣くつもりなどないのに、涙があとからあとからこぼれてきます。 「それでも……、わたしはあなたのそばにいたいのです」 「それでは、約束ですよ。私が迎えにいくのをどうか待っていてください。私の前以外で泣いてはいけませんよ」  わたしの目に映ったのは、いつも通りの困ったような、けれどそこはかとなく嬉しそうな天使さまの顔。甘くとろけるような蜂蜜色の瞳は、柔らかな色をしていました。  そして、それ以降何度天使さまに呼びかけても、鏡からお返事が来ることはなくなったのです。
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