少年期の残像

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 「あいくんのばかっ。なんで連れが増えてるのさ!」  「だって駅前の交差点で会っちゃったから」  「無視しろよっ、置いてこいよっ」  それ本人の前で言う? っていうか本人見えてる? まるでここに俺がいないみたいに喋るじゃん。  塾帰りの夜のことだった。 都心のベッドタウンであるところのこの町を通る電車。そのボックス席に俺と向かい合って座った二人組は、俺の中学ではなかなか有名な仲良し二人組である。  瀬田(せた)和樹(あいき)。女みたいな顔だけど、背が高くてスポーツ万能。明るいクラスの人気者といったところだ。  曽根(そね)侑人(ゆうと)。童顔で小柄、多分今でも子供料金でバスに乗れる。クラスで一番の秀才だけどガリ勉って感じじゃなく、要領の良さを見せつけている。  あいくん、ゆうちゃんと呼び合っている二人は、保育園、小学校、中学校とずっと一緒の幼馴染、らしい。らしい、というのは中学三年になるまで俺は縁がなかったからだ。俺が知った時の二人はモテるし目立つしで、カースト最強コンビとでも呼ぶべき存在だった。本人たちはクラス内のヒエラルキーなどはまったく気にしていないようで――強ければ強いほど権威の差なんて気にしなくて当たり前だ――いつもお互いにつるんで、くだらないいたずらを仕掛けては先生に怒られている。先日も、瀬田がベランダから飛び降りて怒られた折に罰として一人で居残り掃除をやっていたはずが、いつの間にか曽根が加わって二人でふざけて黒板消しを叩きまくり、教室中真っ白にしたところをまた先生に見つかって怒られていた、らしい。俺は見ていない。女子が噂話しているのを聞いただけだ。 そして現在、俺の目の前で曽根が瀬田にぎゃんぎゃん吠えている最中であった。主に、俺が原因で。 「もーほんと信じられない。これから人殺しにいくって時に見かけたからってクラスメート連れてくる? 来ないでしょ?」 「でも旅は道連れ世は情けないでしょ」 「はあ? 情けないのはあいくんだけですう」 「えっ、どういうこと?」 瀬田はマジで自分の言い間違いに気付いていないらしく、本気で困惑している。正解は『旅は道連れ世は情け』だ。っていうかウッカリ聞き流したけど曽根のやつ『人殺しにいく』って言ってなかったか。 曽根が瀬田から目線を外して俺を見る。目が合う。 緊張して身体が固まった。 「今の聞いてた?」 曽根はにやりと笑っていた。揶揄われているだけなのか、本気なのかがまだ俺には判断できず、背筋が冷たくなる。 「聞こえてないわけないよね」 「うん」 ようやく、なんとか、といった体で俺は頷いた。蚊の鳴くような声になってしまった。曽根はまだ口元に薄く笑みを貼り付けたまま、俺を品定めするように上から下まで視線を動かした。 見られている。 突然、電車のガタタン、ガタタンとレールの上を走る音が耳に入ってきた。 乗りなれたいつもの在来線じゃない。これ、どこへ向かうんだろうか。 「あの、俺、次の駅で降りるから」 ほとんど喋ったことのない二人に向かって、俺は一生懸命に慣れない会話で意思疎通を図った。 「二人で約束してたんだろ? 邪魔しちゃ悪いしさ」 ね、と愛想笑いをしたはずが、多分俺の顔にはべちゃりと不気味で潰れた笑い損ねみたいな表情が貼りついているんだと思う。 途端に虚しくなった。帰りたい。 「だめだよ」 瀬田が言った。 「目撃者が必要だと思って連れてきたんだから」 瀬田は真面目な顔をしていた。ついさっき曽根に嚙みつかれていたときは、こう、なんとも言えないけれど、嬉しそうというか、楽しそうな顔をしながら曽根とやりあっていたくせに。 「いらないよ目撃者なんか」 大真面目な顔の瀬田の隣で、曽根が不貞腐れたように言う。 「俺たちのやることは俺たちだけが知ってれば十分だろ」 「うん」 「え、うん? 言ってることとやってることが一致してないよ」 「いや、そのうち一致する、はず」 「はー、もうわかんない。マジで何考えてるかわかんない」 溜息をつきながら曽根は瀬田の肩に頭を預けた。瀬田は犬か猫のように曽根の髪を撫でた。やめろよ、と曽根はぼそぼそ言うけれど瀬田はやめないし、曽根もされるがままになっている。 俺はその光景をしばらく馬鹿みたいにぼうっと眺めながら、やがて我に返って違和感を覚えた。 「え、もしかして付き合ってんの?」 俺は相当険しい顔をしていたと思う。それでも冗談のつもりだった。 「ふふっ」 瀬田が笑った。肩には曽根が凭れたまま。なんだ、なんなんだその意味深な笑みは。そんなふうに反応されたら言い出したこっちも引っ込みがつかなくなるだろ。 「……本当に? あ、いや、まあ、そういう人たちがいることは知ってるけども、ねえ、そうなの……君らが……」 「おいおいおいおい乗せられないでよ、肯定したわけじゃないでしょうが」 瀬田の肩に頭を預けたままの曽根が言う。説得力がまるでない。 「否定もしてないよ……じゃなくて、あっ、君のような勘のいいガキは嫌いだよって言えばよかった!」 瀬田は完全に面白がっている。漫画の台詞だということは分かっていても、俺は別に勘がいいわけじゃないし、同い年の瀬田にガキ呼ばわりされる筋合いもない。 それで、結局どっちなんだろうな。別に瀬田と曽根が付き合っていようといまいと今後俺の人生にどうも影響しないと思うけど。 「別に付き合ってるわけじゃないよ」 瀬田が言った。下衆の勘繰りだったというわけだ。 「そうか。ごめん」 「別に。明日以降教室で変な噂されるほうがメーワクだから、一応否定しておこうと思って」 瀬田のその言い回しになんだか引っかかったものの、どこで引っかかりを覚えたのかは分からなかったので、そのまま飲み込んだ。 「どこだっけ?」 瀬田はすでになんでもないといった具合で曽根に話しかけている。曽根は未だ瀬田に寄りかかったまま、電光掲示板を見ながらスマホを取り出した。 「星見里で降りるって言ったじゃん。いま青葉ヶ丘だから、あと五駅」 そう言って曽根は目を閉じた。眠るつもりらしい。あと五駅で。 「あの」 俺は無視されたらそれでいいやと思いながら話しかける。 「人殺すって、本当に人を殺すの?」 曽根が薄っすらと瞼を開けた。 「そうだよ」 電車が揺れた。瀬田は座席の肘置きに肘をついて顎を乗せたまま、窓の外をずっと眺めている。 「俺のね、家を焼いて皆殺しにすんの」 曽根がぽそぽそと寝言のように言った。 「だから君なんか連れてきてどうすんの、って瀬田に言ったんだよ。でも目撃者が必要とか言うんだから、仕方ないよねえ意味わかんないけど」 俺はおそるおそる瀬田のほうを見た。冗談だと笑っていてくれやしないかと思ったのだ。 瀬田は視線を窓の向こうに投げたまま、聞こえているのかいないのかさえ分からなかった。ただぼうっと景色を眺めているようにも見える。表情が変わらない。人を殺すとか家を燃やすとか妄言のように呟く曽根よりも、教室で見かける雰囲気とまったく変わらず駅で俺に声をかけ、普段通りの様相で電車の窓の向こうを眺めている瀬田のほうがよほど不穏だ。 「次だよ」 電車は目的地の一つ前の駅を発車したようだ。瀬田と曽根はゆっくりと立ち上がって、思い思いに伸びをすると荷物棚から大きな鞄をおろす。黒い鞄の中身は何が入っているのかまったく推測ができないが、ガラガラと音がしている。 車内アナウンスが流れる。電車は徐々にスピードを落として、プラットホームに滑り込む。 「降りるよ、ついてきて」 瀬田に言われるがままに俺は席を立って電車を降りた。 目的地の星見里駅は、なんだかいかにもローカル線の駅っていう具合の殺風景な駅だった。屋根があって、自販機とベンチがぽつん、それだけ。 駅の向こう半分は原っぱだか畑だかが広がっていて、ずっと視界が開けている。 「ぼーっとしてないでついてきてよ」 曽根が怠そうに言うので俺は慌ててついていく。瀬田と曽根は大きな黒い鞄を肩掛けしながら、改札を出ると原っぱが広がるほうとは反対方面に歩いていく。こちらは駅を出るなり丘になっていて、歴史のありそうな、言ってしまえば古い家ばかりの住宅街が坂の上に続いている。 瀬田と曽根は道を知っているらしく、すいすい歩いていく。どこまでこの坂が続くんだろうかとうんざりし始めた頃、先を歩いていた二人が立ち止まった。 ごく普通の一軒家だった。表札は『曽根』。 「君はここで待っててよ、命の保証がないから」 曽根が言った。 「それに一緒に来ちゃったら目撃者じゃなくて共犯者になっちゃうもんね」 瀬田が言う。何故この局面でそんな楽しそうに笑うんだ。お前は何なんだ。 そう思っていると、曽根が「あ、そうだ」と言いながらいきなり振り向いた。 「家が燃え出しても俺たちは帰ってこないかもしれない。そしたら君は一人で帰って。絶対に通報しないで、絶対に」 絶対に、と強く念押しされたが、そんなことしたらお前たちも火事で死ぬんじゃないか、と俺が反論しようとすると、瀬田が口を開いた。 「俺たちの目的は放火じゃなくて、この家の人を殺すことだから。通報されて、うっかりこの家の人たちが救助なんかされちゃったら計画が台無しでしょ」 わかった? と瀬田は言い含めるような声を出すので、俺は頷くしかなかった。 こいつらは今日ここで死ぬかもしれない。でも、それでもいいと二人が決めたことについて、部外者の俺が何か言う気持ちにはなれなかった。 「じゃあ、行ってくるわ」 曽根がそう言って、二人は門を開けると玄関ポーチを無視して家の脇路からどこかへ行ってしまった。曽根の家のはずなのに玄関から入らないのか。しばらくは足音や何かをガリガリとひっかくような音、そして窓が開く音がしていたが、やがて何も聞こえなくなり、俺は夜闇と静寂の中に取り残された。 やることがなくて、俺はなんとなく上を見上げた。濃紺の星空。背が高い建物や明かりが少ない分、もしかしたら俺が普段見ている夜空より星が多いのかもしれなかった。星見里という名前に負けてないなと思った。 綺麗だ。 そうやって、どれくらいぼうっと星空を見上げていただろうか。 突然視界の片隅に、星明かりではない光が現れた。焔の色だ。はっとして視線をやると、目の前の家の二階の窓から火の手が上がっていた。それはどんどん大きくなり、その間に一階の窓からも強い橙色の光が見え始めた。次いでドカドカと遠慮なく走る音、地面に飛び降りる音。 まもなく曽根と瀬戸が行きと同じく黒い鞄を肩に担いで、走って戻ってきた。 「よっし、逃げよう!」 門を出た曽根が俺に言う。 二人が走って坂を下るのに慌ててついていく。 俺たちが逃げ出したそのとき、二階からアアアアアという女の悲鳴が上がった。 俺はぞっとして立ち止まった。 あの家の中には生きた人がいて、そして瀬田と曽根はたった今その家に火を放ったのだ。 二人は本当に人を殺すつもりで、殺そうとしている。 曽根もやや遅れて立ち止まると、うんざりしたような顔で振り返り、二階の窓を見やった。 「必要十分な量は飲ませたはずなのに」 「効きが遅かったのかな……」 何を飲ませたのかは推して知るべしなのだろう。曽根は気怠そうに舌打ちをする。 「面倒なことになったかもしれない」 「大丈夫だよ、目張りは必要以上にやかましくやったから全部剥がして逃げる前に煙で死ぬし、万が一全部剥がして窓やドアが開いてもバックドラフトでいきなり燃えるから多分死ぬよ」 瀬田は曽根を励ますように、背中を優しくたたきながらそう言った。 二人の白い頬を、茶色い双眸を、炎が赤く照らしている。 「だから逃げよ」 瀬田は曽根を連れて走り出した。俺もそのあとを走ってついていく。 星見里駅まであっという間にたどり着く。計算してあったかのように到着した電車に三人で乗り込んだ。 隅のほうのボックス席を探して、俺たちは行きと同じように座った。行き? そういえば来た電車に適当に乗ってしまったが、この電車で俺は家に帰れるのだろうか。家。いつもより帰りが遅いことを多分親が心配している。連絡しなければ、と思ったところで俺はスマートフォンも塾の鞄も持っていないことに気付いた。行きの電車を降りるときに忘れてしまったのだ。今はポケットに財布だけ。 俺は溜息をついてから顔を上げた。正面には瀬田と曽根が、行きとそっくりに並んで座っている。違うのは、二人とも疲れた顔をしていて、口を開かないということだ。特に曽根はぐったりしていた。 「寝ちゃだめだよ」 瀬田が言った。 「わかってるよ」 曽根は不機嫌そうに返答していた。 しばらくの間、俺たちは無言で行先もわからない電車に揺られ続けていた。 「あのさ、訊きたかったんだけど」 俺の声に反応して、瀬田と曽根の視線がこちらに寄越される。 「なんでこんなことしたの」 自分でもびっくりするくらい平坦で冷たい声が出た。俺は多分、自分が思っているよりも、目の前の二人を到底自分の理解し得ない人間だと感じている。 「なんでだと思う?」 行きの電車の中で俺を揶揄うように笑っていたときと同じ、口元だけでにたりと笑ったような顔をして曽根は質問を返してきた。 「分からないから訊いてるんだよ」 「それ、分かる必要ある?」 今度は瀬田が質問で返してきた。 「聞かなきゃわからないよ、それも」 自分で言いながらこれは論理破綻ではないだろうか、と思ったが二人ともそれを指摘することはなかった。曽根は疲れた顔のまま、口元だけ吊り上げるようにして笑いながら言った。 「親がね、離婚再婚してて。ちょっと年の離れた血の繋がらない姉がいるのよ」 曽根は誰もいない通路のほうをぼんやりと見つめながら続ける。 「で、ある日の深夜ね。俺は寝てるのよ。気付いたらその姉がね、ベッドに上がって俺に覆いかぶさってて、俺パジャマの下脱がされてんの」 ははっ、と曽根は乾いた笑い声を出したあと、ふっと俺のほうを見た。 「この話、こっから先は有料だけど、どうする?」 冗談言ってる場合なのかそれは、と思ったが言えなかった。俺にはまったく経験がない。そういう状況でどんな感情を抱くのか、どうすればいいのか想像もつかない。 助けを求めるように、瀬田のほうを見た。瀬田も俺の視線に気付いた。瀬田は作り笑いで愉快そうな顔をする。 「俺は友情価格で続きを聞いたよ」 「ばーか」 曽根が瀬田を小突いた。 「わかんないよな?」 曽根が俺を覗き見るようにしながら言った。 「俺もわかんないもん。何も。どうしたらいいのかとかさ、誰に言えばいいんだろうとか。そもそも誰かに言うようなことなのか、これって」 曽根はまた瀬田に寄りかかるようにしていて、瀬田は口を挟まないまま曽根の肩を抱いていた。 「で、学校で最近よく喋ってた女子に触られた時に、突き飛ばしちゃったわけ、俺は。そんで保健室で先生とスクールカウンセラーにさあ、もうめちゃくちゃ怒られて。海外では『有毒な男らしさ』という考え方があってですねえ、とか懇々と説教されんの」 聞いたことない単語の並びがあった。なんだそれ。 「何それ気持ち悪って感じ。まあちょっと考えれば分かることなんだけど、野生生物に毒があるのは生き延びるためじゃん。で、毒を抜くのは人間の都合じゃん。だいたい人間が食うために毒抜くじゃん。俺、まさに家で食われちゃってるんですけどってめちゃくちゃ面白くなっちゃって、本当に、それが面白くて、ウケると思って、あいくんに初めてその話したんだよね」 「女の子ってどうしてあんなに急にくるんだろうね」 瀬田は曽根の肩を抱いたまま、ぽそりと言った。 俺には瀬田の言葉が分からない。俺には急にくる女の子なんてものは存在したためしがない。 「別に嫌いじゃないけど。優しいだけならいいのに、急にこっちのこと理解してるみたいな素振りされるとなんかムカついちゃうよね。ゆうが突き飛ばしちゃった子もそういう感じだったじゃん。それで揉めてるうちに相手に掴まれて、ゆうはびっくりして突き飛ばしちゃったんだよ」 瀬田のそれは女子に持て囃される男特有の愚痴なのだろうと理解した。俺にはまったく想像がつかないが、瀬田や曽根にとってそれは彼らなりの困りごとなのだ。 贅沢な悩みだと思った。同情する気持ちもないわけではなかったので、俺は黙って二人の話を聞いていた。 「こういうのって、誰かに話しても贅沢な悩みだなとか言われて笑われちゃうんだよね」 まさに俺が思っていることを言葉にされて、ばつの悪い気分になる。 「好きでもない人に踏み越えて近寄られたり、触られたりしたって気持ち悪いよっていうの、どうして見た目が男だと分かってもらえないんだろうね」 瀬田は静かにそう言ってから、曽根のほうを見た。曽根は瀬田の視線に気付いて「人前でへらへらすんな」と顔を手の甲でぺしっと叩いた。人前で、ってなんだ。 「まあ、だから俺家帰れなくなっちゃって、もうずっと瀬田の家に泊めてもらってたしさ、やるしかなかったわけ」 曽根の言葉で話が戻ってきた。俺は犯行動機を訊いたのだ。 聞かなければよかった、とちょっとだけ思った。こんな話が出てくると思っていなかったのだ。俺が軽率だった。人を殺すのだからそれなりの重たい理由があるに決まってる。 「……瀬田は」 「うん?」 瀬田は何もなかったような顔で俺のほうを見た。 「いや、まあ、事情を知ったから曽根を手伝ったんだとは思うけど、」 「手伝ったんじゃないよ」 「えっ」 「俺がやろうって言ったんだよ。ゆうが人殺そうなんて思いつくわけないじゃん」 「それは知らないよ」 瀬田は声を出して笑った。俺はそんなにおかしなことを言っただろうか。 思わず俺は訊いてしまった。 「どうして」 「どうしてって」 瀬田は少し驚いた顔をしていた。 俺には分からなかった。曽根のために、瀬田が殺人の提案計画実行をしてしまう理由が。 分からないというより、多分分かりたくなかったんだと思う。これが友情なんだな、絆なんだな、なんて具合で分かったつもりになりたくなかったのだ。お前たちのことを理解しているって素振りは不遜じゃないか。 「それはさあ」 瀬田は曽根の頭を抱き寄せる。 「ビコーズ、ってやつよ」 瀬田は、今日一番柔らかく微笑んだ。 不覚にも一瞬ドキッとした。 曽根がぶすくれて口を開く。 「三単現のエスがない」 「あっ、そうか」 曽根は何を言っているんだ、と思ったが二人が互いを「あい」と「ゆう」と呼び合っていることに思い至った。 「でもゆうくんに向かって言えばアイラブユーで合ってるでしょ?」 瀬田はそう言いながら曽根の頭を掴んで、ぐりんと自分のほうへ向けた。曽根は不愉快と気恥ずかしいの間みたいな顔をして、視線をうろうろさせている。 「……合ってる」 俺は何を見させられているんだろう。 「合ってるけどっ、他人がいるところでそういうのは」 「いいじゃん、どうせもうすぐ人前じゃなくなるし」 「まあ、そうだけど」 瀬田の言葉の意味が呑み込めずに困惑していると、二人は突然立ち上がって、すぐ脇の窓を開けた。曽根の腰より低い位置から頭の上までの大きな窓が開いて、風が入ってくる。外を見やると、いつの間にか電車は丘の上、川沿いを走っている。川は静かで、その水面には朧げに月を映している。 「ねえ、目撃者が必要だった理由分かった?」 ――いらないよ目撃者なんか。 ――俺たちのやることは俺たちだけが知ってれば十分だろ。 数時間前、曽根はそう言って不貞腐れていた。 「……あいくんって天才だと思う」 「本当に? よかったあ、最後までばかばか言われたらどうしようかと」 「言うけど、本気じゃないの、知ってるじゃん」 二人は大きな窓の前に並んで立って、川面を見つめている。もう俺のことなど忘れたかのようだった。 「本当にいいの?」 曽根は不安そうな声で瀬田に訊いた。瀬田は小さく頷いた。 「いいんだよ、これで。ゆうが決めたことだから。ついていくよ」 瀬田が曽根の手を取って、二人は手を繋いだ。曽根は余っているほうの手のひらで乱暴に目元を拭う。泣いていた。 「あいくんがいてよかった」 「素直なゆうちゃん! 珍しい、照れちゃう!」 「ばか」 「ふふっ……そろそろ行かなきゃ」 「うん」 二人は窓枠に掴まって足をかける。 何をするつもりだ。 「……俺たちのことは俺たちしか知らないってことをさ、」 瀬田が振り向いた。 「君が、覚えててよ」 「えっ」 どういうこと、と問いただすよりも早く二人は窓から飛んでいなくなった。 慌てて窓に近寄る。 二人は川のほうへどこまでも深く落ちていった。そのうち手を繋いだ影は小さくなって、夜闇と黒い川面に紛れて見えなくなった。 俺は呆気にとられてしばらくそのまま窓の向こうを見ていた。 それから急に疲労に襲われて、がっくりと崩れるようにして元の座席に座った。あまりにも突然のことで、しばらく動けなかった。 結局瀬田が何のために俺を連れてきたのか、分からなかった。ついでに言えば、あいつらが付き合ってるのかそうでないのかも分からずじまいだった。 そのあとの記憶は曖昧だ。茫然自失とした俺は終着駅まで乗ってしまい、ふらふら降りたところを駅員だか警察だかに見つかって帰宅した、はずだ。 俺は翌日から毎日欠かさず新聞を読んだ。放火殺人の疑いって文字があるんじゃないか、あるいは川から少年二人の遺体が、とか。けれど、それらのニュースはさっぱり見当たらなかったし、似たようなニュースが載っていてもそれは瀬田と曽根のことではなかった。おかげさまで一年間新聞をくまなく読み続けた俺は受験の時事問題をらくらく突破して、次の春には高校生になった。 あいつらは高校生になったのだろうか。 その後、俺は高校で出来た友達と都心で遊ぶようになったし、数年後には都内の大学に通うことになり、そのうち地元を出てしまった。 たった一度だけあいつらと一緒に乗った星見里行きの電車には一度も乗っていない。 だけど、覚えている。 瀬田よ、覚えているだけでいいのなら、俺はお前の言いつけをちゃんと守ってるぞ。お前らが何考えてるのか、どこにいるのかもまったく分からないけれど。 瞼の裏にいつでも浮かべることができる、あの日の澄んだ綺麗な星空。 あの電車は、今でもあの頃の瀬田と曽根を乗せて星空の下を走ってるんじゃないかと、ときどき思う。 それは、言うなれば残像だ。 彼らがいつか生きた、十五歳の残像。
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