ジャズ

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僕が彼女の部屋を初めて訪れた時、1番驚いたのは机の上に置かれたタバコの箱だった。彼女は普段タバコを吸わなかったし、人生で一度も吸ったことがないと明言していたはずだ。 「このタバコの箱はこうやって使うのよ」と彼女はタバコの箱を開ける。中は空だった。そして机の引き出しから茶色の三菱鉛筆を4本取り出した。全部の鉛筆をピンピンになるまで削り、それをタバコの箱の中に入れた。鉛筆たちにとっては背の低い箱の中で、行儀良く横に並んで立っていた。 「もうすぐよ」という彼女の言葉と共に、どこからかトランペットの音色が聞こえてきた。丘から見える朝日の出現を祝うような力強い叫びの音色だった。それに続いてドラマ、ベース、サックスの音色が呼応する。1人丘の上で朝日を見ていた男の周りには、いつしか楽器仲間が集まり、この世界の存在そのものの祝いの音楽に変わっていく。 「あなたジャズは好き?」そう、この音楽はジャズだった。ジャズの音楽が部屋中に鳴り響いている。「このタバコの箱の中に先が尖った鉛筆を4本立てるの。そうすると、どこからかジャズの音楽が鳴り響くの。そういう使い方をするのよ」トイレに行くと言って彼女は部屋を出て行った。 鉛筆を5本立てたらどうなるのだろう?と僕はふと思った。彼女の机の引き出しからもう一本鉛筆を出す。先を尖らせ、タバコの箱の中に立てる。5本の鉛筆が肩を寄せ合って立っていた。すると、ジャズの音楽は止み、部屋が暗くなる。窓から差していた光も消え、真っ暗になってしまう。僕は完全なる闇の中に閉じ込められてしまう。 でもすぐに僕は独りではないことを知る。闇の向こうからトランペットの叫びの音色が聞こえてくる。他の楽器の音色も後に続いてくる。そしてオレンジ色の照明がつく。照らされたのはジャズバンドだった。サングラスをかけて黒いスーツに身をつつんだ黒人たちのジャズバンドだ。気づくと僕はコンサートホールの座席に座り、その演奏を聴いていた。 「1人で行かないでよ」と彼女が横の席に座る。「5本入れるとコンサートになるの。でもね…」彼女は言葉を詰まらせる。気づくと彼女は泣いていた。トランペットのソロが始まる。その叫びを聴いていると、胸が悲しみで満たされていく。その悲しみが胸を満たすと、僕は涙を堪えることができない。僕も彼女も悲しみの涙を流しながら、ジャズバンドの演奏を聴いている。 「ジャズは悲しみの音楽なの。黒人たちが悲しみの中から生み出した音楽なの」いつの間にか音楽は終わり、僕たちは彼女の部屋の中にいた。日常の世界に戻ってきた。窓から太陽の光が差し込み、僕の顔に当たる。その光に向かって叫びたくなる。それは喜びなのか悲しみなのか分からない。いろんなものが入り混じってる。僕は叫ぶ代わりに、光に向かって手を伸ばした。
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