恐怖

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 小学6年の秋。  学校帰り、友達と別れて一人歩く夕焼けの道で、あいつが僕に囁いた。 『お前、覚えてるか?  今日、ランドセルに彫刻刀入ってるだろ? それで指切ったら、血がびっくりするほど出たよなー。ちょっと切っただけでめちゃくちゃ出るから面白かったじゃんか』  どう考えても、そんなことをした覚えはない。それに、たくさん出る血なんか見たくない。  そんなの、覚えてないよ。心であいつに答えた。  そうしたら、あいつが言った。 『覚えてない? マジか?  なら、やってみろよ。母さんがどれだけお前のこと大事にしてるか、よくわかるからさ』  そんなふうに、母さんの気持ちを試すなんて。  でも、そういえば……昨日は母さんにすごく怒られたんだった。  点数の悪いテストを、何枚も隠してたから。 『……だろ?  昨日のことで、母さんがお前のこと可愛いと思わなくなったら、どうするんだよ?』  それは嫌だ。 『じゃあ、やってみろって。昨日あんなに怒ってた母さんが、また優しくなるぞ』  ……そうか。  じゃあ、怖いけど、ちょっとだけ。  小さい公園の隅のベンチで、ランドセルから彫刻刀の箱を出す。  取り出した刃が、鋭く光っている。  右手に刀を持ち、自分の左手の人差し指に恐々近づけた。  ……怖いよ。  やっぱりやめたい。  あいつにそう言おうと思った瞬間、近くでサッカーボールを蹴って遊んでいた子供達のボールが勢いよく僕に向かって飛んできた。  あっ、と思った時には、遅かった。  ボールが強く右腕に当たる。  次の瞬間、刀の先が深く左の手のひらを切りつけていた。  鋭い痛みが走り、同時に真っ赤な血が傷から流れ出した。 「ボール、ごめんなさい……あっ、すごい血……!」 「どうしよう、この人ケガしちゃった!!」  ボールを拾いにきた子たちが騒ぎ出す。  血はどくどくといくらでも出てきて、必死に押さえようとする指や手のひらを真っ赤に染めていく。  ズボンの膝や土にも、赤い(しずく)がぼたぼたと落ちた。  子供達の騒ぎに、近くでおしゃべりをしていたママ達も僕の怪我に気づいた。 「あら……大変! 出血が……」 「この近くに、外科あったよね? とりあえずそこに連れて行こう!」 「ねえ、君、名前教えて。お家の電話番号は?」  ママたちの声に囲まれ、恐怖と痛みでパニックになりかけていた僕は何とか名前と電話番号を伝えた。 「病院行こう。さ、車乗って!」  ママたちの持っていたタオルを手に巻きつけられ、僕は言われるままに車へ乗り込んだ。  外科で治療を受け、5針縫った。 「鋭い切り傷だから、あまり痕は残らず治ると思いますよ。もう彫刻刀なんかで遊んじゃダメだぞ、危ないからな」  医者が、母さんと僕にそう言った。  血は止まっても、さっきの強烈な恐怖は心から消えていかない。まだ膝が小さく震えている。  病院から家へ着いた途端、母さんは僕をぎゅうっと抱きしめた。 「……ねえ、優斗。  どうして、こんなことに……?」  抱きしめる腕も、声も、ぶるぶると震えている。  お前のこと、母さんに言うぞ。  心の中で、僕は怒りの爆発しそうな思いであいつにそう言った。  あいつはヘラヘラして言い返す。 『へえ、言ってみろよ。そんな話、誰が信じるだろうな?  俺の姿なんか、誰にも見えない。お前にだって見えないんだろう?  もしかして、こうやって俺と会話してるお前自身の頭が狂ってるんじゃないのか?  どっちにしても、頭がおかしい奴と思われて終わりだ。うっかりすると病院に連れてかれるかもな』  確かに、その通りだ。  きっと、誰にも信じてはもらえない。 「…………誰かに、やれって言われたんじゃないの?」 「違うよ、そんなこと、あるわけないじゃん!」  僕はとっさに強く頭を横に振った。 「……うん、わかった。  もう大丈夫。  優斗のことは、守るよ。絶対に」  母さんは、もう一度僕をきつく抱きしめた。  大量の血を見た恐怖感と強い痛みが、何度も脳に蘇る。  もしかしたら、僕は一生こうしてあいつに痛めつけられる人生を送るんだろうか?  でも、お前自身の頭が狂ってるんじゃないかというあいつの言葉を思い出すと、一層混乱する。まさか、僕が僕自身を攻撃してるのか?  頭の中に響くこの声の正体は、一体何なんだ?   どれほど無視しても、あいつは嫌がらせのようにひっきりなしに僕に囁きかける。  この苦しみを、誰にも相談できない。  気づけば僕は自分の部屋に閉じこもりきりになっていた。
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