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一夜抄
囲炉裏の橙色の光が二人と一匹を包んでいた。
一人は古希を越えた老婆。編み物をしている。
今一人は、それをぼんやりと眺めている七歳の少女。
モンペをはいて桃色のトレーナーの上から綿入れの半纏を羽織っている。
その傍らで三毛猫が一匹、座布団の上でちんとうずくまっていた。
少女は老婆の編み物をする手の動きを目で追ったが、何としても追いつけなかった。
ふう、と思わずため息一つ。
チック、チック、チック……。
少女は初めてその音に気付いたように柱の時計を見た。
くすんだ茶色の箱が、闇の中に幽かに浮かんでいる。
振り子は左右に、ゆっくりと揺れていた。
針がさしているのは、九時と半。
ボーンと1回、時打ちの音が鳴る。
「お父ちゃん、遅いね」
少女は囲炉裏に呟いた。少女の父は、自治会の寄り合いだ。
「おおかたまた酒でも飲んで騒いどるのやろう」
そう言って、老婆は目を細める。
「それより、お前、そろそろ寝ないかんよ」
「うん、わかっとる」
返事はしたものの少女は、立ち上がろうとはしなかった。この暖かく淡く明るい世界からからは、あまりにも去り難いのだ。
少女は、周りを見渡した。
闇。
限られた空間だけが明るく温かい。
少女は、闇の黒に手を伸ばした。
その手はただ、空を切る。
何もないことに少女は、新たに驚きを覚えた。
暗闇には何もない。
少女は耳を澄ました。
「ねえ、お婆ちゃん。夜には音があるんやね」
「え? 何な?」
「夜の音が聞こえるねって、言うたんや」
老婆は毛糸を互い違いに絡める手を休めた。
「どんな音な?」
「じーんと何か、耳が詰まったような音や。口ではよう言えんけど、夜の音があるよ。そうや、朝も音があるで。さあーっていう遠くまで聞こえるような音がしよる」
「そうやな。そう言えばそんな感じやな」
老婆は、目をつぶって笑った。そして、細く目を開くとまた手を交互に動かし始める。
「ああ、あったかいなあ……」
少女は、火照った両頬に掌をあてた。
時折、炎がひらひらと揺らめいている。
「お婆ちゃん。火は手でつかめんのやろ?」
「そうやね」
「空気みたいなもんやろか?」
「空気みたいやね」
「でも熱いんやろ? あれ何やろか?」
「何やろね」
老婆には、説明できない。
もっとも少女は、その問いに対する答えを求めているわけではなかった。
言葉の受け答えを楽しんでいるのだ。
少女は、この静かな遊びを続けた。
「お婆ちゃん、何編んどるん?」
「お前のセーターやで」
「ふーん。もうすぐ冬やね」
「ああ」
「そやけど、いつからが冬やろうね。うち、いつもそれが不思議でいかん。
気がついたらいつの間にか冬やもん」
「そうやな。暦の上では立冬からが冬やけどな」
「そんなん、わからん。目に見えんもん」
「そうやな……朝、吐く息が白うなったら、その時からが冬や」
「ふーん。ほな春は?」
「蝶々が飛びよるのを見つけたときからが春やな」
それを聞いた少女の瞳は、白い蝶が花の間を飛びかっている情景を見ているように左右に揺れた。
「夏は?」
少女の問いは、勢いがついたはずみ車のようだ。
「セミの声がうるそう感じた時からや」
急いで、両耳を塞ぐ少女。
「そしたら、秋は? 」
「赤い柿の実を見つけたときからが秋やね」
「ふうん。やっぱり季節はちゃんと別れとるんやね。いつ吐く息が白うなるやろうか。楽しみやなあ」
少女は、息を、はあ、と吐いた。白くはならなかったが、少女は何度も息を吐いた。
「まだ、冬やないんやな」
少女は、老婆を見て言った。
老婆は黙っている。
チック、チック、チック……再び柱時計の音が、少女の意識の中に入って来た。
九時四十分。いつもの少女なら、もうとっくに現実の世界からは離れている時間だった。
しかし少女は、ここにいた。
老婆の『早よう、寝ないかんよ』と言う言葉を恐れて。
老婆がその言葉を言うきっかけとなる沈黙をつくってはならないと、少女はしゃべり続けた。
「お婆ちゃん、人は死んだらどうなるん?」
少女はとびっきり難しい問題を提起した。
「………………」
「おばあちゃん?」
少女は、にじり寄って老婆の顔を覗き込んだ。
しわだらけの疲れた顔。たるんだ瞼が重たそう。
半ば開いた口からはかすかに安らかな呼吸音が聞こえる。
「なんだ、お婆ちゃん寝ちゃったの……」
ふと老婆の脇を見ると、いつの間に起きて来たのか猫が、毛糸玉の一つにじゃれついている。
「お婆ちゃん、猫になっちゃった」
少女は、呟いた。老婆の魂が猫に移ったように思えたのだ。
猫は毛糸玉をつついては身をひるがえし、つついては身をひるがえす。
少女はしばらくの間、この猫の動作に見入っていた。
少女には、小さな生き物が動くのが不思議でならない。
「ようあんな小さな手が動くなあ」
自分の手を眺め、握っては開き、握っては開く。
「よう考えたら、うちの手が動くんも不思議やなあ」
いくら頭の中で『手よ動け』と命じても、手は微動だにしないのに、手を動かせば確かに手は動く。
少女にはそんなことが不思議でならない。
少女は自由に動く自分の手を見ているうちに、その手が、何かほかの生き物のように思えて来た。
「気色悪う」
少女は、手の動きを止めた。
猫のつついた赤い毛糸玉が、ころころところがって少女のひざに当たった。
猫は、糸の端をしっかりと小さな前足で押さえていた。
ころがった毛糸玉の赤い軌跡ができている。
猫は腰をかがめて、しまったというように目を見開いて少女を見上げていた。
少女は、毛糸玉を取り上げて毛糸を少しばかり切り取った。
それを結んで輪を作り、指にかけてあやとりを始めた。
「これが、ダイヤ、滑り台、飛行機、亀、ゴム紐……」
と言いつつ、同じことを三回ばかり続けた。
「もっと他にできるもんはないかなあ」
いろいろと毛糸の取り方を変えてみる。
毛糸がだんだん指に絡んでくる。
指に毛糸が巻き付き、もつれてあちらこちらに結び目ができてしまった。
最初は、ゆっくりとほどこうとしたが、毛糸は少女の小さな指にしっかりとまとわりついて、おいそれとは離れてくれない。
「ううん! もう」
と、ついに小さな怒りを爆発させて、毛糸を引きちぎってしまった。
細く赤い糸くずが、ふわふわと宙を舞っている。
すっかり毛糸を取り払った少女は、無残にも引きちぎられた赤い屍を見て、ふう、とため息ひとつ。
「あんたがいかんのよ」
少女は、赤い毛糸の残骸に言った。
自分が何か悪いことをしたようで泣きたくなった。
「はあ」
少女は、さらに大きなため息をついた。
猫は、いつの間にか何事もなかったように座布団の上で、丸くなって眠っていた。老婆は、今は完全に泥のようだ。
「みんな行っちゃったあ」
猫も老婆も何処へ行ったかはわからないが、少女は、一人だけ囲炉裏端に取り残されたように感じた。
パチッと囲炉裏の薪が爆ぜた後、静けさが戻って来た。
少女の言う夜の音が、鳴りわたっている。
少女は、崩れるように横になった。
髪が頬にふさりとかかる。それがこそばゆくも、快くも感じられる。
ボーン、ボーン、ボーン……。柱時計は十時を告げた。
父の帰る気配はない。
自然と瞼がおりて来る。
閉じた瞼に、微かな光と火のぬくもりを感じる。
「あったかい……」
少女の欲望が、霧散する意識の中で一つになって行く。
もう何もしたくない。ただ、このまま眠りたい。……このまま。
了
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