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彼女がここから飛び降りたことで彼が悲しんだかどうかは謎だが、彼氏は当然ここには住んでいられなくなったのだろう。まるで週刊誌ネタだ。
当時の報道がどの程度だったのかはわからないが、近隣の住人にはある程度情報が流れたのかもしれない。それできっと五年もの間、この部屋に借り手が現れなかったのだ。
「何か未練でもあるの?」
「……」
「俺が出来ることなら手伝うけど」
そう言うと、彼女は何だか言い出しにくそうに逡巡して、ついにはボソッと「同棲……してみたかった」と言った。
「え……ど、同棲!? いやいや、そういうのは好きな人とやるべきじゃ……」
「もう出来ないもの」
(そりゃそうか)
「あなたは……好きな人、いるの?」
「いるっちゃいるけど……」
「片想いなんだ?」
ぐうの音も出ない。
「じゃあ私をその彼女だと思って、同棲の予行演習するっていうのは?」
(何だそれ!!)
その後、彼女は血だらけの顔で微笑みながら「中野明香里」と名乗った。図らずも名前が茜と一字違いなことに腹をくくる。自分も名を名乗り、彼女が同棲で何をしたかったのかを訊いて、その日は別れた。
スマホの時刻を見ると、やはり午前二時半を過ぎていた。
* * *
事故物件滞在三日目。その日の日中は家へと戻り、必要な調理器具を運び出してスーパーで夕飯の食材を買った。そして夕方には仮眠をとって深夜に備える。
それは全て、午前二時に現れる明香里と一緒に料理をするためだった。名前とは裏腹に部屋が明るいと具合が悪くなると言うので、リビングの電気は付けずに暗闇の中、キッチンの灯りだけで料理をする。
「彼氏と一緒に作りたかったんだ?」
手元はジャガイモの皮を剥いている。食材の皮を剥いたり切るのは専ら俺の役目で、炒めて煮るのは彼女の役割だ。今晩(今朝?)のメニューは、誰でも作れるでお馴染みの“カレー”だ。
「やってみたいじゃない。男はそう思わない?」
「どうかな……俺は一人暮らしするのも初めてだし。でも男はもっと他にしたいことあるから、そこまで考えるかどうか……」
「忌一のスケベ」
「どっちがだよ」とツッコむ前に彼女は消えてしまったので、その後の俺は、一人でカレーを食べることになった。
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