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中村孝はひどい近視持ちだった。
眼鏡やコンタクトがなければ、
風呂場ではシャンプーとリンスがどちらか見分けがつかないし、
大学のクラスメートに話しかけられても誰だか判別がつかないほどだ。
ある日、誤って眼鏡を破損させてしまい、コンタクトも予備を切らせてしまったため、その状況で数日過ごしたが、
試験の問題を読むのに時間がかかって散々な成績を取ってしまうわ、
付き合い始めの彼女と勘違いして、別の女生徒に痴漢扱いされるわ、
信号を見落として車にひかれそうになるわ、と散々なストレスを背負い続けたため、一つの決心をした。
新しい視力矯正器具の購入だ。
大学生の身分では少々激しい出費となってしまうが、致し方ないだろう。
数日後。
実家のベッドで目を覚ました孝は、何も見えずに困惑した。
念のため顔を手でまさぐってみるが、もちろん付けてはいなかった。
昨日はバイト仲間と深夜まで飲んでいたので、どこに置き忘れたか全く記憶にない。
また同じような、足の小指に物をぶつけながら移動するストレスを負いながら一日過ごしたくはない。
「茜ー! いないか~? 助けてくれー!」
隣の部屋にいるかもしれない妹に助けを求めるが、まるで反応がない。
高校生の妹は結構アクティブなので、友人の家か買い物にでも行っているのだろう。
たしか両親も揃って外出しているはずだ。休日には、よく夫婦割引を使って映画を観ている。
「くそ、自分で探すしかないか」
寝慣れたベッドの周辺は、手探りでなんとか探索できるが、一番ありそうなナイトテーブルの上にはなかった。
この状況で不用意に動き回って、また以前のように踏みつけて破損させてしまうのは避けたい。
孝は這いずるようにして、できる限り慎重に自分の部屋を調べて回る。
しかし、どこにも見つからない。
「うーん、トイレや風呂場に置いたはずないしな……」
と言いながら、酔っ払って寝てしまった直前の記憶が全くないため、全然信用ならない。
仕方なく孝は自室を這い出て、一階にある洗面所へと向かおうとした。自身のよく通る動線を探す算段だ。
しかし、廊下はともかく階段はかなり危険だ。
足を踏み外してしまったら最悪、命に関わる事だってある。
日常では全く気にもとめない階段におびえながら、一段一段下っていく。
階段を這うように降りるのは初めての経験だった。恐らくかなり滑稽な姿だろう。
そういう意味では、妹が不在なのは幸いだったかもしれない。いたら笑いものの種になっていたことは間違いない。
何とか一階にたどり着き、記憶を頼りに玄関の前を横切り、洗面所の方へと向かう。
実家だから助かったものの、所属している大学の研究室だったら、土地勘が働かずに身動きとれなかったはずだ。
さすがに、20数年過ごしてきた実家の間取りは体が覚えている。
だから方向に関しては問題ないのだが、距離感がまるで掴めない。
肩や膝に壁や柱がぶつかって小さな痛みが走る。
洗面所の引き戸を開き、中に入る。しかし、家族四人が使う洗面所だ。
あらゆるものでごちゃついている。
洗面グッズに歯ブラシやドライヤー、父のオーデコロンや老眼鏡、
母の化粧品にコンタクトレンズのケース、
妹のヘアカラー剤やマウスウォッシュなんかが並んでいるはずだ。
どれがどれだか見分けはつかないが、できる限り丁寧に端から手で触ってみる。
五感の一つを失ったものは、別の感覚が研ぎ澄まされるというが、
なんとなく手の触覚が今は冴えている気がする。
「ここにもないか……」
探し求めている感触は全く得られなかった。
孝は次に、近くにあるトイレを目指す。
どうも昨晩はシャワーすら浴びていないことが頭の痒みからも明確なので、
風呂場は後回しだ。
トイレは小さな出窓と、小物だけを乗せられるウォールシェルフがあるので、そこに置いたかもしれない。
酒を飲んでいたということは、トイレに行った可能性は非常に高いはずだ。
孝は一縷の望みをかけてトイレのドアを開けた。
まずは出窓の方だ。ここには母親の文庫本が山積みになっている。
トイレで小説を読む癖はどうにかしてほしいが、逆に本が邪魔になって他には何も置けなさそうだ。
では本命のウォールシェルフに手を伸ばす。右手の小指に何かが引っかかり、その直後にポチャンという嫌な音が聞こえてくる。
「ああっ、やっちゃった!?」
途端に汗が噴き出てくる。よく母親に、使い終わった後は便座のふたを下ろせと注意されていたのだが、それを守らなかったことが仇となる。
いくら使い慣れた自宅のトイレとはいえ、
その中に手を突っ込むのには抵抗がある。
しかし、あまり長時間水没させておくのも気分が悪い。
三分ほど悩んだ結果、泣く泣く便器の中に手を突っ込む。
「これは……、なんだ?」
見ずともわかる、予想とは違った手触り。
構造の大半が取っ手になっているが、孝には用途がわからなかった。
「ここにもないか……」
もはやどこに置き忘れたか、予想もつかない。
またも目が不自由な状態でしばらく過ごさねばならないのか……。
こうなるのが嫌なので、孝にしては大枚をはたいたというのに、
まさに本末転倒だった。
途方に暮れていると、孤独の世界に一筋の光明が差す。
「ちょっと兄貴……。何やってんの」
「……ッ!? お前、いたのかよ!?」
妹の茜が、辟易した声をかけてくる。顔は見えないが、うんざりした顔をしているのは間違いないだろう。
「今日は部活の練習があったから今帰ってきたとこ。それより、適当な所に放ぽってるから、クッキーが面白がってくわえてきちゃったじゃんか。何事かと思っちゃったよ」
クッキーは中村家で飼っている室内犬のコーギーだ。
「ああ、くそっ。そうか、昨日は部屋開けっぱなしで寝たからな」
二度寝する朝をクッキーに邪魔されたくないので、普段は自室のドアは閉めて就寝している。
だが昨日は酔っ払っており、そんな配慮は綺麗さっぱり忘れていた。
そのため、小さな侵入者を許してしまったらしい。
「ほら。取り返しといてあげたから。感謝しなさいよ」
「おいおい、壊れてないだろうな」
「そこまでは知らないわよ。付けてみて確かめればいいじゃない」
孝は茜から手渡しされたものを受け取る。
それを顔に近づけ、こなれた手つきで目元に持って行く。
もう慣れたもので、片手でも十分扱えた。
「それにしても、つけてない時の見た目異様だよね……。我が兄貴ながら、直視できないわ。よくそんな手術する気になったね」
「うっさいな。お前のように、視力が2.0あるやつに俺の気持ちがわかってたまるか」
今まで真っ暗闇だった世界に、光が戻ってくる。
「ああ、やっと見えるようになった」
幸いにも、愛犬のクッキーはやさしく扱ってくれたらしい。
故障の類いはなさそうだ。ちょっとよだれが付いている気がするので、後で洗った方がいいだろう。
「それより兄貴、そこに置いてあるのは?」
「ああ、さっき誤ってトイレに落としちゃったんだが……、ん!?」
「はぁ!? それ、私の美顔器なんだけど」
「えっ!? あ、ごめん……。でもそんな大事なものならこんなところに置いておくなよ」
「どこで使おうと、私の勝手でしょ」
中村家の女性は、トイレで別の事をするのが癖のようである。
茜は逆に、孝の手から濡れた美顔器をふんだくる。
「あーあ、電源入らなくなってるじゃん。兄貴、弁償してよね」
孝は妹の怒り具合から、そこそこ高価なものなんだろうと推察する。
嫌な予感しかしないが、恐る恐る聞いてみる。
「いくらしたんだよ、これ」
「三万円くらいしたかな」
「三万……、マジか」
孝はうなだれる。一か月くらいのバイト代が飛びそうな出費である。
もう記憶がなくなるまで飲み明かすのはやめようと心に誓った。
近年、眼鏡やコンタクトレンズ、レーシック手術などを経て、人工眼球の需要が増えている。
目玉を生身から人工物に取り換えるのは抵抗を感じる者も少なくないが、政府が普及させたいのか医療保険が適用されるので、
使い捨てのコンタクトレンズよりはコストパフォーマンスが高い。
そして、視野角も生身の眼球と変わらないので、メガネよりも使い勝手が良いのである。
寝る時に外して充電しておかなければならない事以外は、特に支障はない。
もっとも、外している間は眼鏡やコンタクトと違い、光すら感じない暗黒の世界になってしまうのが玉に瑕だった。
購入者は、専用の棚を設け、事故が起きないよう気を付けましょう。と、取り扱い説明書に記載がある。
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