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10 ネガティブフル稼働
過去の忌わしい出来事を思い出した俺は、それでも翌日から何事もなかったかのように、普段通りの生活を心がけた。
大学に向かう道すがら、透に声をかけられいつも通りの挨拶を交わす。
透は単純な奴だから、俺の変化にはたぶん全然気づいてない。
昨日の麻雀はどうだった、とか、テレビ番組の話とか、やっぱりいつもと変わらずバカな話ばっかりしてた。―――けど。
本当は気を使ってるとこあるんだよな、…2号なりに。
金曜日の夜、黒川を見つけて俺が突然帰ったことや、兄貴と黒川の間で交わされた何らかのやり取りについて、恐らく知っているであろう透はそう言う事に一切触れはしなかった。
「――――おはよう…」
後ろから、幾分トーンの低い声が聞こえてきて、瞬間俺の体は強張った。
―――平常心、平常心…
俺は必死に自分の心を落ち着けて、昨日起きたことはまた忘れればいい…大丈夫…と心の中で自分自身に言い聞かせる。
「おぅ、オハヨー―――――って、恵吾、どうした、そのツラ?!」
透の驚いてひっくり返った声がその辺に響いて、周りを歩く学生たちもチラチラと振り返って俺たちの方を訝しげに見ている。
「突然でかい声出―――っ?!」と言いながら二人の方に視線を向けて、その様子を窺い見た俺は、恵吾の顔を見て言葉を失った。
恵吾の左頬に大きく貼られた湿布らしきもの。そして、左の口端には絆創膏も貼られていて、その下には痛々しいくらい紫色に腫れた肌が見えている。
「―――おはよう、慶太…」
「……」
遠慮がちにそう俺に声をかけた恵吾に、俺は言葉を返す事が出来ず、ただその腫れた口元をじっと見つめた。
「…昨日は…その――――悪かった。あの後、純さんにこっぴどく叱られた…」
―――いや、それは叱られたんじゃねぇよ、お前。完全にシメられてるじゃねぇか…
とはわざわざ言ったりはしなかったけれど、俺はただ、「…そう。ちゃんと冷やせよ…」とだけ言って、また学校に向かって歩き出した。
恵吾は何か言いたそうに後をついて来ていたけど、なんで殴られた?とか、慶太に何したんだよ?とか、透の質問攻めにあっていたから、結局大学に着くまで一言も俺たちは話さなかった。
大学の正門まであと数歩という所で、あのレクサスが音もなく歩道に横付けされて、運転席から出てきた黒川が俺の正面に立ち止まる。
「―――お前に話したいことがある。車に乗れとは言わねぇ。聞いてくれるならここでも構わない…」
真剣な硬い表情でそう話しかけてきた黒川に、俺はただ首を横に振る事しかできなかった。
サングラスもかけないで、現役のメジャーリーガーが朝からこんな田舎の大学の前にいたら絶対に目立つだろ、とか、ここでも構わないってどんだけ上から目線なんだよ、とか、言いたいことは山ほどあったけど、俺が言葉を発する事が出来なかったのは、決してそう言う事に呆れていたからではないんだ。
黒川は、何気なく言ったんだろう。きっと。
“車に乗れとは言わない”――――昨夜からネガティブにフル稼働してる俺の頭の中では、その言葉の裏に潜む意味…みたいなものを敏感に読み取れてしまった。
そしてその瞬間、俺はどうにも耐えきれない羞恥と不安と絶望感に襲われる。
“黒川も、俺の身に起こったことを知っている”―――と。
昨夜、恵吾がわかると言った俺の気持ち。
それは、誰かを好きになった時に感じる気持ちなのだと、ハタチを過ぎて初めて知った。
そうか、こういう気持ちが人を好きになるという事なんだ、と、家族や友達に対して感じていたものとは明らかに違うその感情の理由を、思わぬ形で俺は気付く事が出来た。
―――でも。
“俺は、きっと汚ない…”
こんな汚れた俺が、人を好きになったりなんて、そんな烏滸がましい事できるわけがない。
もう、俺に構わないでほしい。
もう、俺をアンタでいっぱいにしないでほしい。
俺はもう、苦しみたくない…
「―――俺には…話す事、ないから…」
絞り出すように漸く無理やり声を出した俺は、正門を通り過ぎて少し離れたところに停車していたタクシーに逃げる様に乗り込んだ。
これ以上、好きになっちゃいけない…
何度も心の中で繰り返し、俺はきつく目を閉じてみたけど、頭の中から黒川の優しい笑顔が消えることはなかった。
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