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11 ファーストコンタクト
「―――ただいま…」
さっき家を出たばかりの俺がそう言って家に入るのを見つけた兄貴が、ものすごい勢いで玄関に飛び出してきた。
「慶太、どうした??―――具合でも悪ぃか?!」
右手に伝票を握りしめたままの兄貴が大声で聞く。
「――んー…チョットね」
「…恵吾のことか?」
…あー、兄貴はそっちを気にしてると思ってたのか。
それもあるけど、…違うんだよ、純くん。
「―――痛そうだったよ、腫れてたし…まぁ、多少手加減したんだろうけど。それに俺、あんまり気にしてないし、そのことは…」
――って、俺なんでこんな言い方してるんだ?これじゃ違う理由があるって言ってるようなもんじゃないか!!俺のバカ…
案の定、というか当然というか…兄貴の表情が見る見るうちに強張っていき、一番気がかりだったことが脳裏に浮かんだんだろう。「慶太…?」、と窺うように俺の名を呼んだ。
だから俺は、どうせ喋らなきゃいけなくなるんだと諦めて、観念したように話したんだ。
「――――兄貴、あのさ……俺、ガキん頃起きたこと、思い出しちゃった…」
悲しい顔をすれば、きっと兄貴は自分を責めるだろうから、俺は必死に笑顔を浮かべた。
だけど、それは何の意味もない事は良くわかってた。
だんだん俺の視界がぼやけていって、さっきまではっきり見えていた兄貴の顔が、揺れる視界の中に霞んで見えて。
「―――そうか…」。
兄貴はただ一言そう言っただけで、激しく顔を歪ませて、目に見えないどこか一点をじっと見つめていた。
「…みんな……みんな知ってるの?――――俺に……そういう過去があったって事…?」
そう、みんな、だ。恵吾も透も兄貴に認められた俺の友人たち、―――そして、黒川も。
みんな俺の身に何が起こったのか知っていたのなら、こんなに恐ろしい事はない。
こんなに恥ずかしい事はない。――――今まで通りになんて、できっこない。
「…知ってるのは、俺と、タカヤさんと、お前を助けた時一緒にいたチームのトップ。あとは諒子さんだけだった。…この間まではな。――――気になってるのは、黒川の事か…?」
「…っ!!――――な、んで…」
友人たちが知らなかったという事よりも、諒子さんが誰なのかという事よりも、俺は、兄貴の口から、断定する様に発せられた”黒川”の名前に、動揺を隠し切れなかった。
俺が一番知られたくなかった相手で、たぶん生まれて初めて好きになった人だったから…
「――あいつ…黒川な、お前に救われたって言ってたぞ」
けど、俺の動揺など気にすることなく、兄貴は淡々と話し始めた。
黒川が怪我をしたのは昨シーズンのプレーオフの最中。
試合終了間際、外野手である黒川の守備範囲内に何の変哲もないフライが飛んできて、それを普通に捕球すれば試合終了、リーグチャンピオンが決定するという試合だった。
ところが、グラブを掲げ捕球体勢を取っていた黒川に、自分で追いつけると下がって来た味方の内野手がぶつかり交錯してしまった。
相手に大きな怪我はなかったけれど、黒川は倒れ込んだ拍子に背中を強打し、脊椎圧迫骨折の重傷。ただ、ぶつかる直前に捕球していたボールは、奇跡的に黒川のグラブに収まったままだったので、チームはリーグ優勝を果たす事が出来、黒川はその一番の立役者として賞賛されたのだった。
その後すぐに病院に救急搬送された黒川は緊急手術を受け、数か月の入院を経てごく軽いリハビリを熟すところまでは回復していた。日常生活にも支障はなく、来シーズンは早い段階で復帰できるだろうと、本人はもちろん、担当ドクターからもお墨付きをもらっていたのだが…
年が明け、オフシーズンを日本での調整に当て軽めの練習を始めた黒川は、背中に違和感を覚える。
暫く体を動かしていなかったせいだろうと気に留めていなかったのだが、日が経つにつれ、その違和感は明確な痛みとなって黒川を苦しめた。
日本で再び診察を受け、あらゆる治療も試みては見たものの、その痛みが消えることはなく、年齢的にも以前の様なコンディションまでの回復は厳しいだろうとの見解を受ける。
無理をしてでも現役続行か、それともすっぱり引退か…
野手としては無理でも、代打要員として日本の球団から来てほしいという打診はいくつかあった。
しかし、黒川はそれにもすぐには応える事が出来なかった。
なぜなら、自分が本当にプロとして今まで同様やっていけるのか、自信がなくなってしまったから。
そんな曖昧な感情のまま、自分の野球人生を決めてしまう事など、どうしてもできなかった。
そんな葛藤の日々の中、気晴らしにと寄ったタカヤの店で、黒川は慶太と出会った。
「自分がどうしたいのかわからないでいた黒川に、慶太、お前、なんて言ったと思う?」
それまで硬かった表情を和らげて、兄貴が少し笑いながら俺に聞いた。
「…わかんねぇよ」
だいたい、黒川が野球選手だという事すら知らなかった俺が、一体どんな言葉をかけれるって言うんだよ。
こないだだって、その顔を見ても誰か分からなかったんだから、とても”引退”という決意をさせる様な言葉なんて、かけるはずがないじゃないか…
俺はそんな風に思いながら、「俺、なんて言ったの?」と兄貴に聞いてみた。
「”好きな事を好きなだけやり続けたなら悔いは残らない”、”でも、好きな事を悩みながら続けるのは好きな気持ちが半減する”、”次の勝負のためには引き際が肝心だ”……って、言ったんだとよ。―――――最初は、何て無責任な事言うガキだ!とムッとしたらしいが、その後の言葉がかなり効いたって」
そこまで言って、兄貴は勿体ぶるように俺の顔をニヤつきながら覗き込み、ちょっとだけ誇らしげな表情を見せたんだ。
「”執着があるからこそ一度離れてみる。そうすることで手放したものが自分にとってどれだけの価値があったかわかるんじゃないか。それに本当に必要なものだったらどんな形でもそこから離れることはないと思うし、向こうも離してくれないよ。――――俺の兄貴がいい見本だ。兄貴の引き際はかっこよかったんだぜ”――――ってな」
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