Side B

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* * * 「たのもー!」  彼女は声高らかに扉を開いた。その瞬間、甘い空気が鼻へ抜ける。扉のすぐ横には、『スイーツ研究会』と書かれたポップな看板が立て掛けられており、奥の方で女の子がふたり作業をしている。次に訪れたのは家庭科室だった。 「奈津美じゃん! どうしたの?」  ふたりのうち、ひとりが振り返る。  小島奈津美は意気込んだ。 「新入部員、連れてきた!」 「ええ!! まじ!?」  それを聞くや否や、淡いピンクのエプロンをつけた彼女は、飛び跳ねて喜んだ。 「ど、どういうこと?」  またしても何も聞いていない私は戸惑ったが、彼女は依然堂々とした態度だった。 「どういうことも何も、ギターと一緒だよ! ここはやっぱり、うまい人のもとで修業するのが一番確実! スイーツ研究会は部員募集中だったし、樋口氏は美味しいクッキーを作りたいでしょ? これぞウィンウィン!」  そう言って、片目を瞑る。 「い、いや……私は別に……クッキーの作り方だけ教えてもらったらそれで……」  もぞもぞと私が話し始めると、キリがないと感じたのか、小島奈津美は緑のエプロンをつけてるもうひとりの部員に近付いていった。緑エプロンの彼女が手を止めると、小島奈津美は一枚の紙を差し出した。  『入部届』と書いている。そして、そこには私の名前が書いてある。もちろん私の筆跡ではない。  私は必死で奪い返そうとしたが、タッチの差で緑エプロンの彼女がそれを回収してしまった。手早くボールペンを出し、何やらサインをしている。様子を見るに、この人が部長のようだ。 「いい? ピンクがココアで、緑がミルクだよ?」  間髪なく、小島奈津美が私に囁く。 ──ピンク? 緑?  いきなり与えられた暗号に困惑していると、今度はピンクエプロンの彼女が話し始めた。 「ルールそのいち! 研究会メンバーは、あだ名で呼び合うこと!」  思わず、あんぐりと口が開く。つまり、話を要約すると、ピンクエプロンの彼女のあだ名がココア、緑エプロンの彼女のあだ名がミルクということになるらしい。 「……なんで?」 「そういう伝統だから!」  ピンクエプロン改め、ココアは元気よく答えた。 「だからまず、あなたにも素敵なあだ名をつけないとね! そうだな……手始めに好きなお菓子を三つ、答えてもらおうかな……」  話がどんどんと進んでいく。  私は、思わずその場から逃げ出した。 「おおい! 樋口氏ー!」  後方で、小島奈津美の声が響く。  それでも構わない。私はこんなに新しいものを、こんなにたくさん始めることが恐怖だった。人間関係はうまくいった試しがない。どうせまた大勢に罵られて終わり。  そう考えると、廊下を走っていく足は、どんどんと速くなっていった。
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