消せない

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「ねえ。私のこと覚えてる?」 数日前、自分の部署に派遣で入ってきた契約社員の女性が業務中、俺に小さく声をかけてきた。 「?」 顔に見覚えはない。 「すみません。わかりません」 「これでも……?」 左肩にまとめていた髪を束ねたまま首筋を見せるようにはねのけた。 「!!」 視界に入った白い首筋に、赤い点が縦並びに2つ。椅子から立ち上がった俺は彼女の手を引いてその場を足早に去った。 ひとまず足を止めたのは、会社の自販機が数台並んである喫茶コーナーの一角で、入り口からは死角になっている角だ。 女の顔の両側に壁に向かって手をついた。 顔に覚えはなかったが、彼女の香りは覚えていた。派手な顔に似合わない清楚な香り、彼女だけのフェロモンだ。 「不穏な体勢ね」 口角をいやらしくあげたまま、真っ赤な唇が開閉して言葉を紡ぐ。俺は黙って彼女を睨みつけていた。 「ま、いいわ。責任とってもらおうと思って」 「あ? 責任?」 「あなたと一夜を過ごしてから、あなた以外の男に興味がなくなっちゃった」 「あの夜のことは君も了承していたはずだ。一夜限りだと」 「私もそのつもりだったのよ? 嘘なんてついてないわ」 「じゃあどうして……」 「あなたのせいよ」 「だから……っ」 「あなたがつけたこの噛み傷のせいで、もうほかの男に目が向かなくなってしまった」 「……………」 「あの夜、あなたは私にこう言ったわ。『大丈夫。君は全部忘れるから』」 「……ああ」 俺は獲物から血をもらうため、牙を突き立てると同時に脳の海馬に作用する分泌液を頂く血液の代わりに流し込む。牙を抜けば獲物は眠り、目覚めれば俺との行為の記憶は消去されている、はずだった。 今までは間違いなくそうだったのに。 「忘れていたわ。首にある傷を見るまでは」 「それだ。その傷も一緒に消えるはずなのに……なんで」 「さあ……。イレギュラーがあるのかもね」 (なんだよ。イレギュラーって……) 初めてのことに自分でも困惑しているのが鼓動の速さでわかる。壁についていた両手を離して彼女を簡易的な束縛から解放した。 「で? 責任取れって?」 「そうよ」 なんだよ。結婚でもしろってか。 「私の記憶を消して」 先ほどまでとは違う顔を見せて女は俺が取るべき責任を提示してきた。 「……一度失敗してるし、もう一度が通用するかどうかわからん……」 「それでもっ! ……それでも、やってみて」 俺を見る瞳が揺れている。いや、瞳に映っているのは俺なのに彼女が見ているのは俺じゃない気がした。 「昼間(いま)は無理だ。今日の夜でいいなら……」 「わかったわ」 彼女は電話番号を走り書きしたメモを俺に渡すと背をピンと伸ばして何事もなかったかのように颯爽と去っていく。 あの夜と変わらない、清楚なフェロモンを俺の嗅覚に残して。
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