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第9章:恋人の時間
「じゃあ、とりあえず」
空也はそのまま健一の前まで近づいて目の前にしゃがみ、床に座った。濃紺のフロアカーペットを選んだのは空也だったが、直接座ったのは初めてだ。
「何してんの?」
「決まってんだろ、土下座すんだよ」
「は、はぁ?」
驚く健一の足元で正座した空也はそのまま両手を床につき、頭を下げた。
「このたびは俺の軽率な行動で大変ご迷惑をおかけしまして」
「待ってよ、やめてよ!」
本気だとわかったのか健一は慌てて、空也の前にしゃがみ、その両肩を掴んだ。
「邪魔すんな。死ぬほど土下座してやるって言ってんだろ」
「そんなこと、僕は頼んでないよ」
「俺がバカみたいなことしたから、悪いんだろ」
「それは……言葉のあやっていうか、とにかくスカイだけが悪いなんて思ってないから」
「本当か?」
「本当だってば」
健一の顔を覗き込むと、その目は泳いでいるが、嘘ではないらしい。
「おまえさ、俺が本気でおまえより女のほうがいいって思ってる?」
「それは、その……最初はびっくりしたから、そう思っちゃっただけで」
「今は?」
「……」
今度は目を逸らされてしまう。
「俺はこの先、女より男がいいとも言わねぇし、女がいいとも言わねぇ。どっちの良さも知ってるからな」
「……」
「でも、ひとつだけはっきりしている」
目の前にある健一の頭に手を伸ばし、その後頭部を引き寄せ、耳元に口を寄せる。
「俺は、おまえがいい」
「……!」
囁くような声に健一の身体が小さく跳ねる。
「抱きたいのはおまえだけだ」
「もう、いいって……」
離れようとする健一をさらに強く引き寄せる。
「逃げるなよ、やっと捕まえたんだ。俺がどれだけおまえが好きで、どれだけ他に興味がないか、教えてやるよ。忘れないようにな」
「待ってよ、本当に、こんなことしてる場合じゃ」
「じゃあどんな場合だ。大和も言ってただろ、今のHopesにとって大事なのは、俺とおまえのことだろ。俺はな、おまえを失くすくらいなら、ライブなんてクソどうでもいい」
「……バカなこと、言わないでよ」
「覚えとけ。俺と過ごす時間がとれなくなるくらい忙しいなら、来年から桜庭の仕事は受けるな。でけぇライブだけが仕事じゃねぇ。しがらみが嫌で独立したんだろーが。何より、俺は好きなやつと一緒にいてぇんだよ」
「わかったよ、わかったから、君は」
観念したのか、健一の身体から力が抜けるのを感じた。
「本当に、呆れるほど自分勝手なんだから」
「そんなもん、知ってるだろ」
「うん、知ってる。なんで好きになっちゃったんだろう」
「それは俺のせいじゃねぇし」
「わかってるよ。だから悔しいんじゃん」
今度はゆっくりと空也の腕から離れ、二人は見つめ合った。久しぶりに近くで見た健一は、いつもの愛らしい少年のような顔ではなく、年相応の疲れた会社員のような顔をしていた。でも、世界で一番愛しい人であるのは間違いない。
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