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カウンターに千円札を置き、コートと鞄を取りドアへと向かう。成田はフロアへ走り、保科の腕をつかんだ。
「……失礼なことを」
保科は立ち止まると、うつむいて大きく息をはき、成田の顔を見下ろした。
「俺、成田さんのことが好きなんだよ」
成田の手をそっとつかみ、下ろす。
「ごちそうさま。コーヒー、本当に旨かった」
「あの、私……」
保科の顔を見上げた。
成田は口から出かけた言葉を言おうとし、言えず、足元に視線を落とした。
「……また、来てください」
保科はしばらく成田を見ていたが、軽く微笑むと店を出た。
成田はゆっくりと閉じるドアの向こうの、背中を見送った。すぐに見えなくなった。
店内を振り返ると、カウンターに保科の残したコーヒーのカップがあった。重い手つきでソーサーを取ると、マンダリンの濃い香りがした。
シンクにコーヒーを流し、カップを洗った。ポットやデキャンタを洗い、水気を拭き取った。何も考えなくても手は動いた。やがて視界が歪み、見えなくなる。成田はシンクの縁についた手の上に顔をうずめた。
店を引き受けるときに、ひとりでいようと決めた。
あの人をまだ忘れられなかったあの頃、この先誰かに出会うとは思えなかった。
それなりに忙しく働く中で、繰り返し思い出すたびに記憶は濾過され、彼への気持ちは忘れていった。失ったさびしさだけが、すくい切れない不純物のように残った。
保科に応える勇気がなかった。
成田は体を起こし、フロアの照明を落とした。カウンターの明かりだけが残る。多分、もう閉店時間は過ぎているだろう。時計を見なくても時間の感覚は体に染みついていた。
ほんとに、俺ってばかだな、とつぶやいた。
マンデリンは、あの人が買っていたコーヒーの香りだ。
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