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 寒い日だった。成田が一人で飲んでいると、彼があとから来た。待ち合わせをしていたわけではない。なんとなく同じ曜日、同じ時間にそこで顔を合わせていた。  彼はウイスキーソーダを注文した。今にしてみれば、酔うつもりがなかったのだろう。  席に着くと、彼はネクタイピンを外してカウンターに置き、ほんの少しタイを緩めた。  小一時間ほど話し、成田に近々結婚すると告げた。その後の会話を、成田は覚えていない。  彼が店を先に出たあと、ネクタイピンを置いたままだと気づいた。成田はすぐに追いかけた。  もつれそうになる足で彼に追いついた。自分の息が白く暗がりに消えていった。彼は振り返り、成田を見ると眉をひそめた。成田はその胸にすがり、抱いて欲しいと懇願した。  返ってきたのは、彼のキスだけだった。あいさつをするほどの軽さの。  去り際に、成田を見る彼のまつ毛がひとつまたたいて、もう会わないのだと思った。  成田はふたたび立ち去る彼の背中を追ってまで、手にしたものを渡したくはなかった。  それきりだ。  多分、彼といるには、おさなすぎた。  彼が、それまでネクタイピンを外すのを見たことがなかった。その意味がもしかしたらあったのかもしれないが、考えても仕方のないことだ。 「……その人のこと、忘れられないの」  保科が言った。 「もう、忘れた。忘れたけど」  涙が落ち、成田は手のひらで口元を覆った。  泣くつもりはなかった。  椅子が動く音がした。  成田は手近にあったキッチンペーパーを取り、その場にしゃがみ込んだ。  早く涙を止めなくてはならない。今日は来店予定の客がまだいる。 「成田……ごめん」  すぐそばで保科の声がした。 「あなたのせいじゃない」
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