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 地元の人はこの店を三原さんと呼ぶ。自分のことを三原だと思っている客はいるし、そう呼ばれることもある。それを特に気にしたことはなかった。  薄暗い店内を見廻し、チェックする。裏口の施錠を確認し、成田は表へ出た。  コートの襟をかき合わせる。そろそろマフラーが欲しい。冷えた空気を吸い込み、真っ暗な空を見上げた。星は見えなかった。  自宅までは10分弱の距離だ。遅い時間でもないのに、自分の足音だけが妙に響いている気がした。  成田はポケットに手を入れうつむき、交互に視界に入るつま先を見た。  綺麗だと言われたのはいつ以来だろう。もちろんあれはコーヒーのことを言っていたのだけれど。  冬になると決まって思い出す人がいた。ずいぶん前のことなのに、きっかけもなく記憶の奥からあらわれる。  大学生の頃、この店でアルバイトをしていた。その頃来ていた常連客の中に、その人はいた。歳は成田よりひと回りほど上で、会社員らしいが、詳しくは知らなかった。  彼は月に1、2回、決まって木曜の夜に来店した。商品も決まっていた。彼女の好みらしい。成田はたいてい祖父と会話をするのを少し離れた場所で聞いていた。帰り際に「秋史くん、また」とこちらにも手を上げ、帰って行く。その笑顔が好きだった。  たまたまバーで会ったのは、彼と知り合って2年が経った頃だった。初めて一人で行き始めた店だ。その日彼は男性と二人連れだった。昔からの馴染みで、たまに顔を出していたらしい。
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