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憧憬
しんとした水底に漂いながら海月は空を見上げた。
今日は随分天気が好い様で、褐藻類の群生するこの辺りにもきらきらと夢のように光が降り注いでいる。海月は昆布の林から抜け出して触手を光に翳した。透明な触手は光を吸って美しく煌めく。
きらきら
きらきらと。
遠い昔、
これよりももっと輝いていた笑顔を思い出す。
真っ新で。
きれいで。
何よりも愛していた。
そして同時に、輝く金の髪を思い出す。
ゆれる美しい金の筋。
それ越しに見た真っ青な空。
いつまでも褪せることのない、後悔。
海月は輝く触手をすうっと伸ばして水を蹴った。
滑るように水が後ろへ流れてゆく。
もっと昏いところへ。
光なんか届かない、絶望の淵へ。
戻りたいと願う心を。
愛おしいと求める心を。
沈めなければ。
海月は水を蹴った。
深く深く。
何処までも、深く――。
*****
「海月!」
名を呼ばれて海月は振り返った。振り返らずとももちろん声の主は分かるが、海月は振り返りたいのだ。声の主の笑顔を見るために。
「若彦さま」
果たして、輝かんばかりの笑顔が海月を迎えた。
「何をしている? 俺も手伝う」
海月の横に立った若彦がその手元を覗き込む。
「だめです。若君にそんなことさせられません」
海月は笑って首を振った。若彦は領主の跡継ぎだ。雑事などさせられない。
ぷう、っと若彦の頬が膨らんで、海月はますます頬を弛めた。
平たい籠に海藻を広げて、砂浜に組んだ丸太の上に並べてゆく。海月が手慣れた様子でこなしてゆくのを若彦は嬉しそうに見つめていた。さっき拗ねていたと思ったら、若彦の表情はくるくると変わる。まだたったの十二歳なのだ。若彦の好奇心は尽きることを知らない。何にでも興味を持ち、何でもやりたがる。
「終わったら、付き合って?」
妙に大人びた瞳で覗き込まれて海月の胸がどきりと跳ねた。
手を引かれて何処に連れて行かれるのかと思ったら、風除けの松林を抜けた白い砂浜だった。浜の方からはちょうど死角になっていて人目が遮られている。
夕日が赤く染める浜辺にふたりで座って海を眺めた。沈んでゆく太陽が凪いだ水面を輝かせる。
「きれいね」
溜息を零すように呟いた海月の手に、若彦のそれがそっと重なる。
「うん。きれいだ」
しかし若彦の瞳は海を映してはいなかった。まっすぐに海月を見つめている。
「早く大人になれたらいいのに」
若彦が言った。若彦と海月は許嫁同士だ。それは生まれるずっと前から決まっていて、海月はうっかり若彦よりも幾分早くに生まれてしまった。六歳の齢の差はいつまで経っても埋まらない。若彦が大人になるのは海月に薹が立ち始めるころだ。
その事実は海月の心を騒がせる。若彦が寄せてくれる愛情を疑う気持ちは微塵もない。なのに、海月は怖かった。時が流れるのが。ふたりの間の時が埋まらないのが。
若彦が動いて柔らかい唇が海月の頬にそっと触れた。華奢な腕が海月を抱き締める。
海月は愛されていた。六歳の齢の差など気にする必要も無いくらいに。幸せは約束されていたし、実際に幸せだった。
筈だ。
けれど不安は弱い心を蝕んでゆく。
誰が悪かったとか、何が悪かったとか。
そういうことを後から考えてもどうしようもない。
海月は間違った。
もう、
戻ることは出来ない。
**
村の者は皆、ふたりの婚約を承知している。だから、海月が年頃になっても言い寄ってくる若者はいなかった。
金の髪をしたあの男。
ふらりと村にやって来て、いつの間にか居ついた若い男。人当たりが好く、金髪碧眼という異形の割にすぐに皆に好かれた。随分とちゃらんぽらんだったけれど、それさえも苦笑と共に受け入れられていた。
「もったいない」
その男が海月に言った。
今が一番きれいなのに。
子供が大人になるのを待って、その美しさを散らせてしまうつもりなのか。と。
誓って言うが、海月は決してもったいないと思った訳ではない。確かに枯れてゆくのであろう美しさを惜しいと思った訳ではない。
けれど海月は男の手に落ちた。
揺れる金の髪越しに見た空は残酷なくらいに青かった。
松林に守られた美しい浜を、海月は汚した。
だから。
男の肩越しに海月の目に映ったものは、罰だったのだと思う。
駆けてゆく背中を追いかける資格も。
再び澄んだ目を見つめる勇気も。
申し開きをする厚かましさも。
海月は持っていなかった。
大きな引き潮のあるその晩に舟を出す者はいない。
だから海月は、小舟を押して潮に乗った。ぐんぐんと遠ざかってゆく陸地が薄い月明かりに霞んで見えなくなるころ、小舟は潮に呑まれた。
海月は、木の葉のように揺れる舟のうえで天を見上げた。真ん円い月が海月を見下ろしている。涙は出なかった。泣く資格など無いのだから。
「ばかだね」
聞こえた声は誰のものだったのか。
月が、
笑ったような気がした。
*****
深く深く。
水を蹴っていた海月が不意に動きを止めた。
真っ青な闇のなかで己の手を見つめる。
そういえば、
いつから己にはこんな触手が出来たのだろう。
いつから、透明な膜で守られていたのだろう。
沈んだ身体は、やがて朽ちて潮に溶けた筈だった。
魂さえも抜け落ちて、無に還った筈だった。
海月は初めて自覚した。
私は疾うに死んだのだと。
もう、
戻りたいと願う心を。
愛おしいと求める心を。
沈める必要はない。
そんなものは初めから存在しないのだから。
可笑しくて笑みが零れた。
それはぷくりと泡になって海面に昇ってゆく。
ぷくり、ぷくりと泡がはじける度に、
透明な触手が海の闇に溶けてゆく。
そうして最後に、頭を覆っていた膜も闇に流れた。
真っ白な塊が、昇ってゆく。
凪いだ海のうえ、
新月の闇のなかに、
その白い塊はただ静かに浮かんでいた。
*
下弦の月が照らす砂浜に人影が立つのは初めてではない。上弦の晩と、下弦の晩と、潮の満ちる夜更けには必ず現れる。雨の日も風の日も、一日も欠けることはない。
だからその晩、水際をそぞろ歩く足元に白い塊を見つけたのは偶然ではなかった。拾い上げると、内に溜まっていた水がざあっと流れる。
青年は流れた海水が足を濡らすのにも構わずに、
髑髏の頬をそっと撫でた。
もう何も映さない空洞が青年を見上げる。
そこからひと筋滴ったものは、
もちろん潮水であったのだろうけれど。
青年は悲し気に微笑んで、
それを懐に大切に仕舞った。
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