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最初に言っておくが、私は色が分からない。全ての色が識別できず、外界の全てがモノクロ写真のように見える。六歳くらいの頃から今まで、ずっと続いている。昔、親から聞いた話だと、色覚異常という症状自体は珍しいものではないが、私みたいに「全てが灰色に見える」状態は「全色覚異常」といって、数万人に一人の割合で起こる非常に珍しいケースらしい。
数万人に一人。この言葉だけを聞くと、まるで宝くじにでも当たったような響きに聞こえるがとんでもない。色が見えないだけならともかく、網膜の中の錐体が完全に機能していない状態なので、暗い場所だと視界が完全に闇に染まり、明るい所だと視界が光に染まり眩しすぎて、どちらの場合でも「物の形」すら、はっきりと認識できないのだ。視力で例えると「0.1」以下だろう。去年の健康診断の結果は「0.04」だった。網膜自体の問題なので、眼鏡を掛けても回復するわけじゃなかった。
私は今年の4月に高校に入学した。他の人なら、薔薇色の高校生活を想像して胸をときめかせていることだろう。だが、私には何の希望もなかった。こんな目で一体、何の希望があるだろうか。勉強だって黒板の板書をノートに写すだけでも一苦労だし、スポーツなんて以ての外だ。あちこちに体をぶつけて、痣だらけになるだろう。そもそも、私は帰宅にすら一苦労なのだ。あまり、遅い時間になると外が暗くなり、私の視界は殆ど闇に染まると言っても過言ではない。盲目ではないので、道幅や大体の風景、現在位置などは把握できるが、それでもかなり移動しづらい。だから、遅くまで残る部活動に入る余裕などなく、陽が落ちる前に帰らなくてはならない。そんな高校生活は私にとっては薔薇色ではなく、何の面白みも無い無彩色だった。
(はぁ……憂鬱だなぁ……。やっぱり家で通信教育の方が良かったのに……)
溜息を吐く。私は今年から通う高校の中庭に居た。幾つもの大樹が屹立しており、生い茂っている葉が緑豊か……であろう(私には分からないので、こう述べるしかない)憩いの場所。
この日は入学式だった。体育館で校長先生の話を聞いた後はすぐに解散だったので、「今日は楽だなぁ」と安心したのも束の間、学年主任の先生から「明日はクラスで集まりオリエンテーションと部活見学、明後日から授業を開始する」と聞き、明日以降の日々に不安を募らせ、偶々見つけたこの場所で少し休んでいこうと思ったのだ。
私自身は周囲に迷惑を掛けないよう、自宅での通信教育を希望した。でも、両親が「世間体が悪い」とか「通信の教育なんて信用ならん」という偏見にまみれた思考の持ち主で、自宅から電車で30分くらいの場所にある高校に半ば強制される形で入学する羽目になった。
無論、両親は私の病気は知っている。だが、両親は共に「昔ながらの価値観」というものを持つ人だった。曰く、
「誰かに依存しようと思うな。誰かに手助けしてもらえると思うな。何でも楽をしようと思うな。病気なんていうのは何の理由にもならん。甘えるな」
と学校の送り迎えはおろか、家でも何にも手伝ってくれない。いつのまにか、私もその価値観に染まり、病気を理由にせず、何でも自分の力でやらなくちゃ駄目だと思い込むようになった。「楽な道に進むのは悪」という観念が既に私の中で固まっていたのだ。
私はもう一度、溜息を吐く。この先、憂鬱なことだらけだ。珍しい症状だから周りの人間に言っても、きっと理解されないだろうし、私自身、他人の手を借りることに抵抗がある。じゃあ、一人で問題なく学校生活を送れるのかと聞かれれば、答えはNOだ。勉強もスポーツも満足に出来ない、部活動に入って頑張ることも容易ではない。これから先、ずっと私は悩み苦しみ続けるのだろう。
その時、私の背後から声がした。
「どうしたの? こんな所で。もしかして一年生?」
大人びた麗しい声。振り向くと、私より少し年上らしき女性がすぐ近くに居た。くびれの辺りまで髪が伸びており、ブレザーを着こんでいる。そして、この問いかけから察するにこの学校の先輩だろうと推測できた。
「はい、そうです。今日から、この学校でお世話になります。乃木心と申します。よろしくお願いしますね。先輩」
私の挨拶に先輩が微笑んだ。
「礼儀正しいわね。私は宇野美月。今年から二年生で部活は美術部。一応、部長なんだけどね。此処にはデッサンの下見に来たの。桜が満開で綺麗だから。貴方もこの桜を見に来たんでしょう?」
先輩の言葉に私は思わず驚いてしまった。
(え……、この木、桜だったんだ! しかも満開って……。すっかり、緑の葉っぱだと思い込んでた……)
私は先程、「緑豊か」という表現を使ったが、それは誤りだったらしい。「薄桃色の花びらが満開」という表現が正しかったのだ。(先程も言ったが、症状は6歳の頃からの発症であり後天的なものなので、葉っぱの「緑色」や桜の「薄桃色」の花びらは幼い頃の記憶で朧気に覚えていた)
私の驚愕の表情に怪訝な顔をする宇野先輩。「病」のことを知られたくない私は咄嗟に話を合わせた。
「はい! この桜、本当に綺麗ですよね! 美しい薄桃色の花びら。それらが風で舞う様子が最高で。思わず、此処に来ちゃったんです!」
まさか、風で舞っていた物を枯れ葉か落ち葉の類だと思っていたとは言えない。今はまだ昼過ぎで明るく、明るすぎる場所では眩しくて、私は「物」の形を正確には判断できないからだ。目の前の樹が「桜」だと分かったので、桜の樹を表現するのに相応しい言葉を適当に並べ立てる。
そんなあたふたした様子が面白かったのか、先輩はクスっと笑い、私に問いかけた。
「ねぇ、乃木さん。正式な部活の勧誘期間は明日からなんだけど、もし良ければ美術部に入らない?」
「え?」
私は唐突な彼女の台詞に戸惑った。まさか、いきなり勧誘されるとは思わなかった。
「乃木さんの『美しい風景を美しいと思える感受性』はウチにピッタリだと思うの。勿論、既に決めている部活があるなら無理強いは出来ないけど……。どうかな?」
朗らかな親しみやすい笑顔の先輩。とても優しそうな人だ。そして、容姿端麗、眉目秀麗な彼女に惹かれる気持ちもあった。「入りたい」。その言葉を素直に言いたかった。
だが、私にはその決断が出来ない。私の「病」。「色が見えない」病気でどうやって美術部が務まるだろうか。いや、むしろ先輩や他の部員に迷惑をかけてしまうかもしれないのに……。
私は暗い表情で俯いた。「ごめんなさい」。その言葉を口に出そうとした。その時―――。
「貴方と一緒に居られたら、きっと楽しいだろうな」
先輩が呟いた。小さな声だったが、それでも私の耳にはっきりと届いた。期待に満ちた潤んだ瞳が私に向けられる。
「私、美術部に入部します。よろしくお願いします」
私の口から自然とそんな言葉が出ていた。
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