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8
「そんな……わざとって……。私は本当に……」
私は精一杯、弁解の台詞を言おうとする。だけど、彼女の台詞に遮られた。
「うん。色盲については本当だと思う。でも、『色盲』の症状じゃない失敗もあったよね。いや、あれは失敗じゃなくてわざとやってたんでしょ。その点については小浅さんの意見は当たってた。陰影を付ける線の引き方。線は鉛筆で引くから、色は関係ないからね。誤差の範囲とかじゃなくて、線を出鱈目な位置に引いていた時は私もおかしいと思ったんだ」
「違います! 私の『色盲』は網膜の中の錐体が原因で……。視力が悪くて……」
私の反論に先輩は首を横に振った。
「さっき、貴方は私が声を掛ける前に振り向いた。私は肩を叩いただけ。なのに、どうして分かったの? 貴方の背後に居た人物が宇野美月だってことを……」
「そ、それは……」
「ましてや、あの場所は完全な闇だった。街灯の光で逆光になって、私の顔は見え辛かった筈。普通の人ならまだしも、色盲の人が人の顔を判断できる場所じゃなかったんだよ」
「……」
私は黙り込むしかなかった。その通りだったから。私が色盲なのは本当のことだ。そして、私がわざと失敗していたのも本当の事。勿論、全てではないが、色に関係ない失敗は先輩の言った通り。間違った位置に陰影の線を引いたのはわざと。そして、今回の退部騒ぎや家出紛いの寄り道も「宇野先輩が、あるいは家族が心配して来てくれるんじゃないか」ということを期待して起こした出来事だった。
「あの先輩……。ごめんなさ……」
「今は謝罪しなくても良い。いいから、付いてきて」
話の最中も先輩は私の手を引きながら歩き続けている。何処まで行くのだろうか? この道は私が通ってきた道を引き返しているルートだ。私達は神宮道から円山公園の入口へ足を踏み入れた。
「着いたよ」
先輩の足が止まる。私の足も同時に止まる。円山公園の中央にある大きな枝垂桜、「祇園枝垂桜」が目の前に屹立していた。
「どう見える?」
先輩が私に尋ねる。私は首を横に振った。変わらない景色だ。全てが灰色。今は夜なので、殆どの景色が影絵のようだ。目の前の枝垂桜も形だけで把握している。
先輩は頷くと、驚くべき台詞を口にした。
「大丈夫。貴方が抱えている症状は全色覚異常じゃない。貴方の目は色を取り戻せるよ。私が今日、貴方の呪いを解いてあげる」
「え?」
唐突な台詞に戸惑う私。先輩は構わずに話を続けた。
「さっきも言ったけど、今日、貴方の親御さんに会って来た。お母さんは私に謝ってばかりで『娘がご迷惑を掛けていないでしょうか?』って、しつこいくらいに聞いてきた。お父さんは娘が帰ってこないという事態を聞いても舌打ちして迷惑そうな顔をしていた。『人様に迷惑をかけて何をやってるんだ、アイツは』って台詞を言いながらね。自分の意見が無視されて、親の意見を無理やり通される。貴方の家での環境はこんな感じじゃないかな?」
私は先程にも増して驚かされた。まさか、両親と少し話をしただけでそんな事まで分かってしまうなんて……。
そして、宇野先輩はまるで名探偵のように私に真実を突きつけた。
「貴方が抱えている症状は恐らく『境界性パーソナリティ―障害』だと思う。自分がどういう人間なのか分からずに大きな不安を抱くことで、怒りや衝動を他者や自分に向ける病。この病の患者は常に虚しい気持ちを抱えているの。私の知り合いに同じ病気の人が居てね。何となく、貴方と似てるからピンと来たんだ。
貴方がわざと失敗するのは『常に見捨てられる不安』を抱えているからだね。私に対しても、家族に対しても、大切な相手を試そうとする『試し行動』をする。相手の反応を窺って、『何処まですれば見捨てられないか』、『大切な人だから私が酷いミスをしても決して見捨てたりしないよね?』っていうことを確かめようとするんだね。
この病の患者は愛着障害に苦しんだ経験を持つ人が多いらしいね。親から愛されなかった子供は一方通行の行き場のない愛情を抱えてしまうから。無条件で自分を受け入れてくれる筈の親に酷いことを言われたから、貴方は他人を信じて自分を守ってもらうことに臆病になっているの。
幼少期のトラウマは脳に影響するから、貴方の色が見えない病は心因性のものだと思う。さっき、私が言ったことから、少なくとも貴方の目自体はきちんと見えている筈だからね。調べてみたけど、本当の『全色覚異常』の人は夜や暗い所の方が物が見えやすいっていう特徴があるの。明るい所や昼間とかは強い光があるから見えづらいけど、暗い所だとはっきりと物が見えるらしい。勿論、色は見えないけどね。確かに、全色盲の人は視力が低いけど、貴方の症状とは真逆で暗い所では問題なく動ける筈なの。
だから、これは貴方の心の問題。貴方の心の中にある呪いを解けば、貴方の目は元に戻る筈だから……」
私は信じられない気持ちだった。ずっと今まで色が見えないのは目のせいだと思い込んでいた。でも、本当は私の心の方が病を抱えていたのだ。
全て彼女の言う通りだった。私の大好きな先輩。でも、私は美術のことなんか全く分からない。私と比べて、小浅さんの方がよっぽど美術の経験もあるし、意識も高い。いつ、私が先輩に見捨てられてしまうのか、とても不安な気持ちに苛まれていたのだ。だから、時々、ミスをして先輩の気を惹きたかった。『私がついていないと……』って思われたかったのだ。
私はなんて愚かなことをしてしまったのだろう……。これでは、私が彼女を信頼していないみたいだ。大好きな先輩を嫌な気持ちにさせてしまった。再び、私の目から大粒の涙が零れ始める。
「あの、先輩。本当に……本当にごめんなさい……。私……」
泣きながら謝罪する私の頭を宇野先輩は優しく撫でてくれた。
「ありがとう。謝ってくれて。小浅さんはあんな事を言ってたけど、私は貴方を迷惑になんて思っていないよ。初めて桜の木の下で会った時のことを覚えてる? 『この桜、本当に綺麗ですよね。花びらが風で舞う様子が最高』って貴方は言ったよね。色が見えなくても、貴方はあの場所に立っていた。私が美しいって思った物を『綺麗』って貴方は言ってくれた。知ってる? あの場所、他の人はあんまり近付かないの。大きな木をたくさん植えすぎて、春とか夏に葉が生い茂ると日陰になってて陰気臭いって理由でね。だから、話を合わせただけかもしれないけど、あの時の貴方の言葉は私には凄く嬉しかったんだよ。
だから、そのお礼。私は『乃木心が心の底から信じられる人』になる。貴方を、乃木心の存在を無条件で受け入れる存在になる。私は――」
そこで言葉を切り、宇野先輩は自分の唇と私の唇を重ね合わせた。咄嗟のことで私は狼狽えた。先程から、先輩には驚かされてばかりだ。でも、嫌な気分ではなかった。むしろ、嬉しい気持ちだったと思う。私は目を閉じて、そのまま先輩の唇を受け止めた。柔らかい感触、仄かなジャスミンの香りが私の鼻腔をくすぐる。先輩が私の背中に手を回し、私を優しく抱きしめた。先輩の優しさが私を包んでくれる。
三秒くらいの短い時間だったと思う。先輩の唇と体が私から離れた。名残惜しい、残念な気持ちになる。もっと、宇野先輩にキスしてもらいたかった。もっと、先輩に抱き締めてもらいたかった。
先輩が先程の台詞を続けた。
「私は貴方の彼女になりたい。恋人になりたい。貴方のことが好きだから」
――目が眩んだ。
先輩の告白の台詞を聞いた瞬間、急に視界が明るくなる。目の前に見える先輩の顔。黒い髪に、美しい白い肌。そして、紺色のブレザーがはっきりと見えた。横には大きな枝垂桜がある。その色はライトに照らされ、鮮やかな桃色の花が満開に咲き誇っている。
色が見える。全ての色が鮮やかに。童話では呪いや魔法を解くためにキスが用いられることが多い。大好きな先輩のキスで私の心の呪いが解かれたのだ。
嬉しかった。また、私の目から涙が零れる。今日の私は泣いてばかりだ。でも、この涙は嬉し涙。
今まで、生きてきて最悪だった。誰からも理解されず、辛い毎日だった。でも、今日、私の最悪な毎日を彼女が変えてくれた。あの桜の下で出会った日。あの出会いはまさしく運命の日だったのだろう。そして今、あの時と同じように私達は大きな桜の下で向かい合っている。
私の答えはもう決まっていた。
「私も貴方が好きです。あの日、桜の下で先輩と初めて会った時から、ずっと貴方のことが好きでした。そして今日、貴方は私の呪いを解いてくれた。貴方は私にとってかけがえのない大切な人です。
――美月先輩。私とお付き合いしてください」
私は両手を前に差し出した。美月先輩がそれに導かれるように私の方へと歩み寄る。密着する私達の体。私は彼女の背中に手を回す。先輩も私の背中に手を回してきた。ゆっくりと優しくお互いを抱き締め合い、私達は桜の下でもう一度、唇を重ね合わせた。
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