【息を殺して】

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【息を殺して】

 目に見えるのは、黒一色の世界。そもそも、これが目に見えている光景なのかも怪しい。  瞼を閉じた時のように光すら感じない世界で、私はジッと息を殺していた。――いや。正確には、半ば強制的に息を殺す状況にされている、と言った方が正しいかもしれない。 「ごめんね。こんなことして……」  口元を塞ぐ骨ばった指に、背中に感じる他人の温もり。耳元で密やかに紡がれた言葉は、声になるたび吐息が耳孔の奥をくすぐる。言いようのない感覚に身をよじれば、男の力で身体を抑え込まれる。  動くことも、声を上げることも出来ない状況で、私は観念して体の力を抜き、彼に身を預けた。 「あともう少しで、出られると思うんだけど」  申し訳なさそうに謝罪する男に言葉を返すことは出来ないが、自由の効く右手で二回、口を塞ぐ彼の手の甲を軽く叩いた。気にしないで、という思いを伝える為に。  視覚が頼りにならない世界。耳を澄ませば遠くから籠った音が聞こえ、何度か襖を開閉する音が聞こえる。軋む座敷を歩く足音。布団が擦れる動作音。  それから暫く息を潜めると、次第に音は鳴りやみ、辺りに静寂が生まれる。そして――、 「おーい! もう出てきていいぞ」  この押し入れの向こう側――襖の奥から先生の見回りが過ぎ去った合図を受け、ようやく息を殺すことを止めることが出来た。  高校二年の修学旅行。男子の部屋に忍び込むという羽目を外すつもりは毛頭なかったが、私は今、男子の部屋の押し入れに身を隠している。  理由は簡単で、旅館のロビーに落ちていたタオルを届けに来た直後、運悪く生活指導の先生による見回りが始まったのだ。その為、私がこの部屋を訪れる前に来ていた女子生徒も含め、布団の中や押し入れの中などに隠れるという、お約束のようなことをすることになった。  先生が立ち去った今、襖の奥では危機を乗り越えたクラスメイト同士無事を喜び、再び修学旅行の夜を楽しもうとしていた。 「良かったね。見つからなくて」  私の背後で安堵の息を洩らしたのは、ロビーに落ちていたタオルの持ち主・瀬尾唯人。  部屋の入り口でタオルを渡して立ち去るつもりが、廊下で聞こえた足音をきっかけに部屋に引きずりこまれ、こうして二人で押し入れに身を隠すことになった。  通常敷布団の類が収納されている場所も、夜になれば空の物置。田舎の祖父母宅を思い出させるような木の匂いを感じながら、私はようやく窮屈な場所から抜け出せると、腰を上げようとした。  ――が、 「…………」 「あー。ごめんね」  恨めしい目で彼を睨めば、謝罪の言葉が返ってくる。しかし、謝罪するぐらいならこの手を離してほしいと言うのが、言葉に出来ないこちらの言い分だった。  瀬尾は立ち上がろうとした私の身体を引き戻し、胡坐をかいた自分の足の間に落とした。押し入れの向こうの大部屋には明かりが灯り、襖の隙間からは僅かな光が差し込む。その光を頼りに見上げた相手の顔は、苦笑い。少しでも罪悪感があるなら離してほしいと身をよじっても、彼は自分の手に少しの力を加えて私を抑え込んだ。  恋人や片想いの相手であればラッキーハプニングと喜ぶべき展開なのだろうが、私にとって瀬尾とこの状況になるのは困るだけ。たとえ相手が、顔がいいと話題のイケメンであってもだ。 「そう言えば、麻尋ちゃんに聞きたいんだけどさ」  相手を抑え込んでおいて、何が『そう言えば』だ。  早くこの場を脱したい私の意思などお構いなしに、彼は後ろから抱えたままの姿勢で話題を持ち掛ける。 「あのタオル、どうして俺の物だって分かったの? 名前書いてなかったのに」  聞かれたくなかった彼の問いに驚いて肩を跳ね上げると、背後で喉を鳴らす笑い声が聞こえた。 「俺が前に同じのを使っていたの見たのかな? それとも誰かが教えてくれた? もしくは――」  じらすように、答えを知りながらあえて外すような予想を並べながら背後で彼は笑い、身を硬くする私の耳元でこう囁いた。 「――匂い、とか」  図星を突かれて縮こまると「やっぱりね」と瀬尾は笑い、吐息がかかる耳元から寄せていた口元を離した。 「麻尋ちゃん、俺の匂い好きだもんね。廊下ですれ違うといつも身体硬くしてさ。あの様子って、後ろ姿でも可愛いよね」  言うな、言うな、言うな。何度も叫んで相手の口を塞ぎたい衝動に駆られても、肝心の口は彼の手によって塞がれている。今でも鼻腔からは彼の匂いが吸い込まれ、その香りに頭の奥がくらくらする。  好きだと言える相手なら良かった。片想いという甘酸っぱいものの相手なら良かった。だけど私にとっての彼は――瀬尾唯人という存在は、そんな可愛らしいもので片付けられない。  近づけば触れられる距離まで近づきたい衝動にかられ、ほのかに香る残り香にさえ反応してしまう相手。僅かな理性を保つことでなんとか自分を維持しているが、彼に触れられその匂いを感じると、頭がふわふわした感覚に陥る。危険な存在なのだ。  好きだから熱に浮かされる。そんな相手ならどんなに良かったことか。何度思っても現実は好転せず、意識すればするほど彼と言う存在に堕とされていく。  だからこそ適切な距離を保ち自分を律していたが、その努力も今、脆く崩れ去ろうとしているのを早くなる鼓動で感じ取っていた。 「顔真っ赤。さっきは見えなかったけど、今なら見えるね」  見られたくないと顔を背けようとしても、口元を抑える手によって強制的に顔合わせをさせられ、動揺する目だけを背ける。けれど視界の端で楽しそうに笑う彼の姿は目に映り、羞恥心からまた頬が熱を持つ。 「可愛いから恥ずかしがらなくてもいいのに。……けど、無理強いは良くないよね」  そう言って彼は口元を抑えていた手を離し、その手で私の目元を覆い隠す。 「はい、これで真っ暗。俺に見られていることが分からなければ、恥ずかしくないよね」  名案だと笑う彼に、そんなわけはないと反論したかった。だけど声を上げる前に柔らかな感触が新たに口元を覆い、言葉を発する以前に、息さえ出来ない。  目に見えない恐怖が襲うも、強くなった彼の匂いに心臓が早鐘を打つ。危険だと本能が訴えても、この状況から逃げ出す術など私にはなかった。 「あれ? 瀬尾どこ行った?」 「麻尋ちゃんって、もう帰ったっけ?」  襖の向こう側で自分たちを探す声が聞こえても、答えることは出来ない。ようやく口が自由になった後でも、離れる前に距離を詰め、私たちは互いの呼吸を殺す。 「あともう少し――じゃ、出られないね」  今も自分たちを探す声を襖越しに聞きながら、私は暗闇の中で彼の匂いに引き寄せられ、何度も息を殺す。何度も、何度も、何度も、その呼吸に食らいつく。  真っ暗な世界の中で唯一分かる“彼”という存在に縋りながら、押し入れに響く乱れた吐息で耳の中を埋め尽くした。  こうなるから近づきたくなかった。  既に後悔しても遅いと分かりながら、私は暗闇の中で互いの息を殺し合った。 <終>
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