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翌日、さっそく僕はこの町の郷土資料館を訪れると、地元の歴史に明るい学芸員に話を聞いたり、資料を見せてもらったりして、あのホテルの前に建っていた小学校の、太平洋戦中における状況について調べてみた。
「なるほど。そういうことだったのか……」
すると、すぐにすべてのピースがぴったりと収まる、秘められた歴史的事実が明らかとなった。
昭和20年4月13日、この町もアメリカ軍のB29による空襲に見舞われ、多くの人々が焼け出された。いわゆる東京大空襲と呼ばれるものの一つだ。
それでもあのホテルの地に建っていた件の小学校は鉄筋コンクリート造りだったために延焼を逃れ、疎開で児童が減ったこともあったのだろう、空襲で負傷した大勢の市民を収容するための仮設の病院に転用されたそうだ。
その後、沖縄戦の開始などもあって東京への空襲は一時中断され、しばらくは仮設病院として無事に機能していたのだが、同年5月24日未明、再び東京への空襲が始まると、この校舎へも着弾。やはり木造でなかったことが幸いしてか全焼は免れたものの、爆弾片や破壊された建物の瓦礫により多くの死傷者が出たのだという。
そして、終戦後は改修工事がなされて再び小学校となるのだが、やはり古い校舎の被弾のダメージが深刻だったために、高度成長期に廃校となって、近くの学区と統合される…という経緯を辿ったらしい。
で、その跡地に建てられたのがあのホテルというわけだ。
僕が暗闇の中で見た包帯巻きの患者や看護婦さん達は、おそらくその二回目の空襲で犠牲となった人々の残した想念だったのだろう。
これは余談だが、戦後、小学校としてまた使われていた時も、やはり包帯男や看護婦の霊が出るという学校の怪談が児童達の間で話題になっていたのだとか……。
ともかくも、ようやく真相にたどり着いた僕は、再びあのホテルを訪れると、オーナーにこの史実について僕の推理と合わせて伝えることにした。
「そうでしたか……いや、この町が空襲に遭ったことは知ってましたが、この場所でもそんなことが……」
話を聞き終わると、感慨深げに手にした茶碗の緑茶へ視線を落とすオーナーに、僕は問題解決のためのアドバイスを付け加える。
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