極夜

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 何故私が、このような人が住めないような不毛の地に、地面を這うコケモモしか生えない生物の限界点に打ち捨てられてしまったのか。  それは、町に疫病が流行ったからです。  恐ろしい連鎖を絶ち切るために、疫病で命を落とした人間を荼毘(だび)に付す決まりがありました。もちろん、病人が出た家も焼き払われます。  そして、私もまた、疫病により呆気なく死んでしまったのです。  流行り病を恐れた町の人たちは、父が営む酒場を焼き払いました。そんな恐ろしいことがあっても、父は若くして死んでしまった私を燃やすことができなかったのです。  父は密かに遺体となった私を連れて、町から逃げ出しました。氷の大地に埋葬すれば亡骸は、若く綺麗なままの状態を保てるはず。そう考えたからです。  私は母に生き写しでしたから。  母もまた、私の幼いころに病で亡くなってしまったのです。    私が埋められた翌年、一人の男がツンドラの地にやってきました。 「タマラよタマラ、私のタマラはどこにいる?」    ほら、私を探すあの方の声が聞こえます。  歳のころは三十前後といったところでしょうか。もしかしたら実年齢は、もっと上かもしれません。  彼を知ったのは、町に疫病が流行る少し前のこと。父の酒場にふらりとやってきたのです。  あの方はシルクハットを被り、襟にビロードをあしらった上等なコートを着ていました。指に黒ダイアをいくつも光らせ、銀の柄のステッキを持っていました。  明らかに場違いな紳士の身なりは、人々の間で、たちまち評判になりました。  なんでも男は妻に先立たれた、淋しい独り(やもめ)暮らしだというではありませんか。華やかな社交界も、男の淋しさを紛らわすことは叶わず、都会暮らしにけりをつけて、この田舎町を訪れたのです。  男は町外れにある古い屋敷を買い取りました。  夜になると、父が営む酒場に食事をしにふらりと現れ、大金を落としてゆきました。そして不思議なことに、私は男を見たときから随分と前から知っていたような気がしていました。    料理を運ぶ私に、彼はそっと囁きます。 「タマラ、綺麗なタマラ。私の屋敷に遊びにおいで」  私が頬を赤く染めると決まって父は咳払いをしました。  エプロンのポケットに、美しい花の絵が描かれた栞が押し込まれていたこともありました。 「タマラよ、私の絵は気に入ってもらえたかな? 屋敷に来てくれたなら、君の美しい姿を描いてあげられるのに」  またある時は父が留守だと知ると、こんなことも言いました。 「私は独り淋しく眠れぬ夜を過ごしている。タマラよこんな時はどうしたらよいだろうか」 「寝る前に少しの読書をなさったらよいかと存じます」私はそう答えました。  その数日後に、彼はこうも言いました。 「お陰で眠れるようになった。けれど、手持ちの本をすっかり読んでしまったのだが、どうしたものだろう?」  私が自分の本を貸し出すと、あの方は本ではなく私の手をご自分の両方の掌に包み込んで言いました。 「今宵、私の家を訪れて、読んではもらえないだろうか?」  つややかな前髪の間から、吸い込まれそうになるくらい真っ黒な瞳が覗いていました。恥ずかしくなった私は視線をそらせてしまいました。 「タマラの巻き髪は、なんて柔らかな色をしているのだろう。灰色の田舎町を照らしだす、黄金色(こがねいろ)は、まるで夕日に輝く太陽のようた。滑るような頬は、枯れ草ばかりの庭先に咲く、紅色をした薔薇のようである。そして、タマラの瞳は、漆黒の闇夜の中にチカチカと瞬く、星みたいだ。──ああ美しいタマラ。どうか私の妻になってはもらえないだろうか?」  男は懇願するように言った。 「私を妻に?」  驚いた私は持っていた本を落としてしまいました。  男は本を拾い上げると、愛しげな眼差しで私を見つめました。  その時です。  父が鶏小屋から戻ってきました。男の所業を目にした父は声を荒らげ、箒を振りかざし、男を追い出しにかかったのです。  私は泣いて父を止めました。   「あの男はおまえを手ごめにしようとしている! 金持ちなのはいいが、実に薄気味悪く信用のならない男だ」そう父は言いました。 「まぁお父様。薄気味が悪いだなんてそれは違うわ。だいたいお客様に失礼だわ。あの方は見事な絵を描いていらしてよ。それに、美しい言葉もかけてくださいましたわ。心が清らかでなければ、あのような美しい言葉はおっしゃれないはずです」 「世間知らずの娘よ。美しい絵や耳み当たりの良い言葉に騙されてはいけないよ。紳士的な態度の裏に、卑劣な下心を隠し持っているのだからね」  
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