極夜

4/4

21人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
 冷たい地中の中にいても、あの方の声が聞こえます。 「タマラよタマラ、私のタマラはどこにいる?」 「私の名前を呼ぶあの方はいったい誰なのかしら?」 「タマラや、お願いだから出ておいで」  私はじっと息をひそめます。 「凍り付いた大地よ。お願いだから、愛しのタマラの眠る場所を教えてくれないか?」  あの方をの声が聞こえるたびに私の心臓は早鐘を打ち、子宮にうずきを感じるのです。  あの方はどうして死んだ私を探しているのでしょう? 「私はここよ」  けれど私の声はあまりに小さく、あの方には届きませんでした。  雪がちらつき、あの方は落胆の呻き声を漏らしました。まもなくこの地は冬の厚い氷に閉ざされ、墨汁を落としたような闇の世界である極夜が訪れたのです。  彼は、とうとう私を見つけ出すことはできませんでした。  翌年の夏も、あの方は再びこの地を訪れました。ですが、氷の土が砦となり、あの方は私を見つけ出すことができません。  数年同じことがつづき、ある時からぱったりと来なくなりました。  その翌年も、  そのまた翌年も──  不思議なものです。  春が過ぎて夏が訪れて、あの方が来ないとわかると、なにやらとても淋しいと感じます。  けれど今さら醜い屍を晒すことなどしたくありません。  あの方に名前を呼んで欲しい、ただそれだけです。  私は恋を知る前に亡くなってしまいました。ですから、これが恋する気持ちだとはわかりません。私の胸が疼き、その痛みとむず痒さから両手で掻き毟りたくなります。  お逢いしたい。  あの方の胸に抱かれたい。  そう願うようになりました。    年月は流れ、私が亡くなってからちょうど百年が過ぎました。  今年の陽射はいつより強いものでした。解けた氷の水滴が寄せ集まり、幾つもの小さな川を即席につくりだしました。  私の屍は、氷水をたっぷり含んだ土の中で、地上へ地上へと押し上げられようとしています。  一匹のイタチが水の中で飛び跳ねました。ぬかるんだ地面が動き、私の頭部の半分が地面から露出しました。イタチはその牙で私の額の半分を食いちぎったのです。  私は大声で「やめて、やめて」と何度も叫びました。  ほどなくしてイタチは死肉を口にしたせいか、よろよろとしながら痙攣を起こし、やがてその場にぱたりと倒れてしまいました。  不意にあの方の声が聞こえました。 「タマラの声が聞こえたぞ。もう一度、返事をしてくれないか?」  私は嬉しさのあまり心を躍らせました。 「寝ている私を起こすのはどなた様?」  つい私は返事をしてしまいました。 「またもやタマラの声が聞こえたぞ。今、そちらへ参るから待っておれ」  あの方がぴちゃぴちゃと泥濘を歩く音が聞こえてきます。 「タマラよ、どうか声だけじゃなしに姿を見せてくれないか?」 「それは無理というもの。だって私の躰は朽ちてしまったのだから。こんな姿では貴方様はきっと驚いてしまいます」 「驚くなんてとんでもない。朽ちてなお美しい君。後生だから、出てきておくれ」  屍の私がこんなにも胸がときめくだなんて。それに百年もの間、生きるあの方はいったい誰なのかしら?    もし、この世に神がいるならば、天国の門を固く閉じ、長い間この地に私を留め置いたのがいけないのだわ。  道を外れ、たとえ地獄に堕ちようとも、あの方の傍にいたいと私は強く願いました。    そして、ついに、私はあの方の前に出ていく決心をしたのです。   「私を呼ぶあなた様、後生ですから私を見ないでくださいな」  私は男の前に恐る恐る佇みました。 「ああ、タマラついに見つけたぞ」  感嘆の声をあげた男の息が上がっていました。 「タマラよ、怖がるでない」 「怖がるのはあなた様。この身は温かな陽射しのせいで腐ってしまったの。悪いイタチが私の顏の半分を食べてしまったわ」  見られたくない私は、顔をそむけつつ、ちらりと愛しき彼を盗み視る。  男は黒い大きな帽子を被り、襟がビロードを貼った黒いマントを羽織っておいででした。長い髪を後ろ一本に束ね、耳飾りが揺れています。  青白い肌、黒い瞳は明らかにこの世のものではない美しさに、私は目を奪われてしまいました。  それに引きかえ私はなんと醜く、なんと痛々しい姿──。   着ている死に装束は、白く透けた布地が無惨にも泥水にまみれ、裾が何本にも裂けたスカートはバラバラと風になびいていました。   「タマラ(そむ)けないで私を見てごらん」  私はおずおずと彼を見つめました。 「こんなにも醜い私に、さぞかし幻滅されたのでしょう?」 「何を言う。その朽ち果てて尚も美しいそなたよ。どうか私の妻になってもらえないだろうか?」  男はさっと近づき、私の腰に腕を回すと抱きしめました。頤を掴み、顔を近づけ、私の唇を奪ったのです。途端に躰全体の力が抜け、心は軽く解き放たれました。  気づくと私の躰は宙に浮いています。  真下には肉片のついた白骨の遺体が──。  イタチが食べた私の額は青黒く変色し、肌艶も唇も瞳の輝きも全ての色を失いながらも、土にまみれた金髪だけが不気味に輝いていました。  イタチの死骸を食べた狼がぱたりと死んでいました。その肉片を摘まんだ鳥たちが墜落死。鳥の死骸を食べた鼠がいたるところで死に、その鼠を食べた狐が媒介となり、死が人里に広がってゆくのが分かりました。 「さぁタマラよ、死の女王に相応しい女よ。私と一緒に黄泉の国へいざ参らん」 「あなた様はもしや……」 「人間は私を死神と呼んでおる。氷を溶かした愚かな人間どもは、百年間眠り続けた流行り病を復活させたのだ。それと気づくのはずいぶん後のこと。タマラの目覚めは、多くの死を呼ぶであろう」 「なんと恐ろしや」 「恐れることはない。これが神と契約を交わした死神の役目よ。タマラを我妻にもらい受けたのもまたしかり。今宵の閨は夜伽噺でもしてはくれまいか」  私は死神に抱きかかえられ、彼の住まいがある黄泉の国へ連れていかれました。お日様の光が二度と見られない、地面の奥深く、闇の世界へと引きずりこまれたのです。  私が最後に見た風景は、よろけた瀕死の鹿を人間が仕留めたところでした。    (了)          
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

21人が本棚に入れています
本棚に追加