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冷たい地中の中にいても、あの方の声が聞こえます。
「タマラよタマラ、私のタマラはどこにいる?」
「私の名前を呼ぶあの方はいったい誰なのかしら?」
「タマラや、お願いだから出ておいで」
私はじっと息をひそめます。
「凍り付いた大地よ。お願いだから、愛しのタマラの眠る場所を教えてくれないか?」
あの方をの声が聞こえるたびに私の心臓は早鐘を打ち、子宮にうずきを感じるのです。
あの方はどうして死んだ私を探しているのでしょう?
「私はここよ」
けれど私の声はあまりに小さく、あの方には届きませんでした。
雪がちらつき、あの方は落胆の呻き声を漏らしました。まもなくこの地は冬の厚い氷に閉ざされ、墨汁を落としたような闇の世界である極夜が訪れたのです。
彼は、とうとう私を見つけ出すことはできませんでした。
翌年の夏も、あの方は再びこの地を訪れました。ですが、氷の土が砦となり、あの方は私を見つけ出すことができません。
数年同じことがつづき、ある時からぱったりと来なくなりました。
その翌年も、
そのまた翌年も──
不思議なものです。
春が過ぎて夏が訪れて、あの方が来ないとわかると、なにやらとても淋しいと感じます。
けれど今さら醜い屍を晒すことなどしたくありません。
あの方に名前を呼んで欲しい、ただそれだけです。
私は恋を知る前に亡くなってしまいました。ですから、これが恋する気持ちだとはわかりません。私の胸が疼き、その痛みとむず痒さから両手で掻き毟りたくなります。
お逢いしたい。
あの方の胸に抱かれたい。
そう願うようになりました。
年月は流れ、私が亡くなってからちょうど百年が過ぎました。
今年の陽射はいつより強いものでした。解けた氷の水滴が寄せ集まり、幾つもの小さな川を即席につくりだしました。
私の屍は、氷水をたっぷり含んだ土の中で、地上へ地上へと押し上げられようとしています。
一匹のイタチが水の中で飛び跳ねました。ぬかるんだ地面が動き、私の頭部の半分が地面から露出しました。イタチはその牙で私の額の半分を食いちぎったのです。
私は大声で「やめて、やめて」と何度も叫びました。
ほどなくしてイタチは死肉を口にしたせいか、よろよろとしながら痙攣を起こし、やがてその場にぱたりと倒れてしまいました。
不意にあの方の声が聞こえました。
「タマラの声が聞こえたぞ。もう一度、返事をしてくれないか?」
私は嬉しさのあまり心を躍らせました。
「寝ている私を起こすのはどなた様?」
つい私は返事をしてしまいました。
「またもやタマラの声が聞こえたぞ。今、そちらへ参るから待っておれ」
あの方がぴちゃぴちゃと泥濘を歩く音が聞こえてきます。
「タマラよ、どうか声だけじゃなしに姿を見せてくれないか?」
「それは無理というもの。だって私の躰は朽ちてしまったのだから。こんな姿では貴方様はきっと驚いてしまいます」
「驚くなんてとんでもない。朽ちてなお美しい君。後生だから、出てきておくれ」
屍の私がこんなにも胸がときめくだなんて。それに百年もの間、生きるあの方はいったい誰なのかしら?
もし、この世に神がいるならば、天国の門を固く閉じ、長い間この地に私を留め置いたのがいけないのだわ。
道を外れ、たとえ地獄に堕ちようとも、あの方の傍にいたいと私は強く願いました。
そして、ついに、私はあの方の前に出ていく決心をしたのです。
「私を呼ぶあなた様、後生ですから私を見ないでくださいな」
私は男の前に恐る恐る佇みました。
「ああ、タマラついに見つけたぞ」
感嘆の声をあげた男の息が上がっていました。
「タマラよ、怖がるでない」
「怖がるのはあなた様。この身は温かな陽射しのせいで腐ってしまったの。悪いイタチが私の顏の半分を食べてしまったわ」
見られたくない私は、顔をそむけつつ、ちらりと愛しき彼を盗み視る。
男は黒い大きな帽子を被り、襟がビロードを貼った黒いマントを羽織っておいででした。長い髪を後ろ一本に束ね、耳飾りが揺れています。
青白い肌、黒い瞳は明らかにこの世のものではない美しさに、私は目を奪われてしまいました。
それに引きかえ私はなんと醜く、なんと痛々しい姿──。
着ている死に装束は、白く透けた布地が無惨にも泥水にまみれ、裾が何本にも裂けたスカートはバラバラと風になびいていました。
「タマラ背けないで私を見てごらん」
私はおずおずと彼を見つめました。
「こんなにも醜い私に、さぞかし幻滅されたのでしょう?」
「何を言う。その朽ち果てて尚も美しいそなたよ。どうか私の妻になってもらえないだろうか?」
男はさっと近づき、私の腰に腕を回すと抱きしめました。頤を掴み、顔を近づけ、私の唇を奪ったのです。途端に躰全体の力が抜け、心は軽く解き放たれました。
気づくと私の躰は宙に浮いています。
真下には肉片のついた白骨の遺体が──。
イタチが食べた私の額は青黒く変色し、肌艶も唇も瞳の輝きも全ての色を失いながらも、土にまみれた金髪だけが不気味に輝いていました。
イタチの死骸を食べた狼がぱたりと死んでいました。その肉片を摘まんだ鳥たちが墜落死。鳥の死骸を食べた鼠がいたるところで死に、その鼠を食べた狐が媒介となり、死が人里に広がってゆくのが分かりました。
「さぁタマラよ、死の女王に相応しい女よ。私と一緒に黄泉の国へいざ参らん」
「あなた様はもしや……」
「人間は私を死神と呼んでおる。氷を溶かした愚かな人間どもは、百年間眠り続けた流行り病を復活させたのだ。それと気づくのはずいぶん後のこと。タマラの目覚めは、多くの死を呼ぶであろう」
「なんと恐ろしや」
「恐れることはない。これが神と契約を交わした死神の役目よ。タマラを我妻にもらい受けたのもまたしかり。今宵の閨は夜伽噺でもしてはくれまいか」
私は死神に抱きかかえられ、彼の住まいがある黄泉の国へ連れていかれました。お日様の光が二度と見られない、地面の奥深く、闇の世界へと引きずりこまれたのです。
私が最後に見た風景は、よろけた瀕死の鹿を人間が仕留めたところでした。
(了)
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