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気づくと、もとの園に戻っていた。目の前には、口もとまでしか見えない有栖さんがいる。
「思い出しました?」
「ええ。たしか、有栖さんと話したのはあのときが、最初で最後ね」
「はい」
私の卒業間際のことだった。私はあのあとすぐ学院を去った。それで、彼女のこともすぐに忘れてしまった。それでも、人づてに彼女が亡くなったことは聞いた。理由は、よく知らない。
「それで、有栖さんがどうして私をここに?」
たった一度言葉を交わしただけの関係だった。会いにきて、と言われるのは不思議だ。もっと私以外に、呼ぶべき人がいたのではないだろうか。
「先輩でなきゃ、だめなんですよ」
私の考えを見越したようにそう言った。
「ここに人を呼ぶのは、それなりの手順がいるんです。本当はすぐにでも先輩をお呼びしようかと思ったんですが、時間がかかってしまって」
手順というものがどんなことをするのか、私には分からないけれど、面倒くさそうだと思った。
彼女が亡くなったのは、まだ彼女が在学中のことだったはずだ。だとしたら、あの日から一年も経っていない間に、彼女は亡くなったのだと思う。
「有栖さんは私になんの用があるの?」
彼女はふふっと微笑んだ。
「伝えたいことがあって」
「なにかしら」
「わたし、先輩のことが好きなんです」
ぽかんと、私は間抜けな顔になった。
「有栖さんが、私を?」
「そう。わたしが、先輩を」
「それはまた、どうして?」
たった一度しか言葉を交わしたことなんてないのだ。不思議だった。
有栖さんはおかしそうに笑い声をあげた。
「一目惚れというものですよ、先輩」
「はあ」
有栖さんみたいに美しい少女が、どうして私なんかを。そう思ったけど、口には出さなかった。恋に理由なんてないのだと、旦那が言っていた。理由を突き詰めるのは、野暮らしいのだ。
「それは、どうもありがとう」
「いいえ」
彼女は満足しているらしい。口もとが、そう語っていた。
「それを伝えるために、有栖さんは面倒な手続きをして私を呼んだの?」
たった一言、好きと伝えるためだけに。
「はい」
当たり前ではないか、と言いたげな声だった。
「だって、伝えられないままなんて、モヤモヤするでしょう」
それでもほかに、もっと園に呼ぶべき人がいるのではないかと、私は思う。しかし口には出さない。
彼女に会いたい人は、いくらでもいるだろう。彼女の両親だとか、親友だとか。たった一度しか言葉を交わさなかった私よりも、彼女に会いたいと願う人はいるはずだ。だが、彼女は私を呼んだ。
「本当は、先輩に添い寝でも頼もうかと思ったんですが。一人で眠りにつくのは寂しいし。でもそれだと、先輩は困るでしょう」
「そうね。私、旦那がいるから家に帰らないと」
「ざんねん。でも、いいです。伝えられたから」
彼女は背を向けた。もう用はないとでもいうような素振りだった。歩き出して、背中が一歩ずつ遠ざかる。
「本当に、これだけでよかったの?」
あまりにもあっけない。これだけで、彼女は永遠の眠りにつけるのだろうか。
「先輩にとっては些細なことでも、わたしにとっては、とても大切なことだったんですよ」
足をとめて、すこしだけ振り返る。顔は、やはりよく見えない。
「あのとき、あの階段で、先輩に出会えたことは、わたしにとって大切なことだった。たとえ先輩がそうは思っていなくても。だからちゃんと、この言葉を伝えたかった。ただ、それだけ」
風が吹いて、藤の花が揺れた。その刹那、彼女の瞳がちらりと見えた。藍色の瞳だ。あの日、階段で、間近に見た瞳。
「綺麗ね」
つい言葉をもらしていた。あのときもそうだった。
有栖さんは、とても綺麗なのだ。
私はあのとき、とても驚いて、素直に感動した。綺麗だと、口に出していた。べつに彼女に向けたわけではなくて、ひとり言のようなものだった。
彼女は、わずかに目を瞬いた。花のすきまから、見えた。
それから、はにかむ。
「ありがとうございます」
あのときは夕陽に染まっていた。今は、藤の花に染まっている。でも、彼女の表情は同じだった。恥ずかしそうに、微笑む。
藤の花が揺れて、私の視界は紫に染まった。
有栖さんは、藤の花にまぎれて、いつのまにか消えてしまった。
*****
私は園を出た。
来るときは招待状の蝶に誘われて、でも帰るときは一人きりだった。歩いていると、自然と山の麓に行きついた。
有栖さんはあまりにもあっけなく、永遠の眠りについた。本当に、たった一言を告げるためだけに、私を呼んだのだろう。
女学院での有栖さんとの出会いは、私にとっては些細なことだった。たしかに彼女のことはとても綺麗だと思ったし、鮮烈な印象ではあったのだろうけれど、だからどうという話でもない。すごい少女がいたものだ、と感動したまでのこと。
その証拠に、ここに来るまで彼女の存在なんて忘れていた。
それでも有栖さんにとっては、あの出会いがなによりも重要なことだったらしい。心の内をしめて、だれよりも私に会いたいと願うほどに。
綺麗なんて、彼女ならいくらでもかけられた言葉だろうに、そのときの彼女の心には残ったのだろうか。私のたった一つの言葉が。
不思議なものだ。
一つの事柄でも、人によって、そこまでとらえ方が変わるのだから。
同じ世界でも、人の数だけ違った世界が広がっているのだろう。それは、とても面白い。私にとっての些細な出来事が、どれだけ彼女の中で大切な想い出として残っていたのだろう。彼女の美しい瞳には、あの光景がどう映っていたのだろう。
私にはつまらなく見えるこの世界も、ほかのだれかの目には美しく見えるのだろうか。
家に帰ったら、旦那にはどんな世界が見えているのか聞いてみるのも、いいかもしれない。
園での彼女との出会いは、私にとっては不思議なものだなというほどで、日常に戻ればまたきっと記憶の海に埋没していく。薄情なのかもしれないけれど、私はそういう人間だ。
それでも藤の花をみれば、思い出すかもしれない。とても綺麗な少女のことを。
私と交わしたたった一瞬の交わりを、大切に想ってくれていた、彼女のことを。
思い出せば、すこしは私の退屈な日常も、美しく見えるような気がするのだ。
(了)
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