12人が本棚に入れています
本棚に追加
藤の花に消えゆく君は
「ねえ、覚えていますか?」
透き通るような声がした。
藤棚から垂れる紫の花房が、顔を隠している。口元だけが見えた。その口から、とても綺麗な声が発せられる。
紫の世界だった。頭上は藤の花がおおっている。足もとには、落ちた花びらが絨毯のように地面に重なっていた。どこを見ても、紫色の花しかない。それでも、閉塞感はなくて、明るかった。空からは陽の光が差し込んでくる。藤の花をはさんで届く光は、透明で、柔らかかった。
「ごめんなさい。覚えていないわ。あなたはだれ」
正直に言うと、そうと彼女は嘆息する。
私は彼女のことを覚えていない。ここから見える彼女の姿は、口元から下だけ。その唇の形は綺麗で、整った容姿なのだろうと想像できた。薄い紫のワンピースからのぞく四肢はすらりとしていて華奢だ。紫がかった――もしかしたら周りの藤の色に影響されて、そう見えるだけなのかもしれないけれど――長い黒髪も美しかった。
私はこんな美しい少女と知り合いだっただろうか。
もし可能性があるとしたら、女学院だろう。
もう卒業して久しい学院を思い出す。真っ白な校舎は教会のようだった。みんな長いスカートを清楚に着こなして、上品に笑っている。
「あ」
ふと思い出した。名前は、たしか。
「有栖さん」
彼女の口もとがほころんだ。
有栖さんはあの時と同じ美しく透明な空気をまとって、そこに立っていた。
ああ、彼女は時間が止まっているのだな、と思う。
この藤棚にいるのは、そういう人だ。
*****
命を閉じてなお、眠りにつけない人が集まる園があるという。
時折、園から招待状が送られる。どうしても会いたい人へと、園にいる人が手紙を出すのだ。私に会いにきて、と。
手元にその封筒が届いたのは、二週間前のことだった。旦那から、「本当に届くことがあるんだな」と驚いた顔で手渡された。私も驚いた。ただの都市伝説とばかり思っていた。
封筒は薄紫の上質なものだった。ただ一言、会いにきて、と。
筆跡に見覚えはなかった。綺麗な字だと思った。
だれだろう。私に会いたいというのは。亡くなった祖母でも、母でもない字。とくべつ親しくしている友人たちの中では、園に行くような者はまだいないはず。
そもそも私は、あまり人付き合いを好まない。人に興味がない。だから、園にいる人からのお呼びがかかるなんて思わなかった。
――有栖さんか。
たしか、ずいぶん前に亡くなったと噂にきいた。
*****
風が巻き起こって藤の花が揺れた。かぐわしい香りがただよう。花の香りかと思ったけれど、そうでもない。花の香りはもっと生命力にあふれて、暴力的だ。
花が頬を撫でる。意識が遠のいて、私は目を閉じた。
ふたたび目を開けると、そこは園ではなかった。
夕暮れに染まった女学院だ。
ぼーん、ぼーん。
低い鐘の音が鳴った。
私は廊下に立っている。懐かしい。女学院の、やけに長い廊下だ。左手はみがきあげられた窓ガラス、右手は教室。床はチェス盤のようなチェック柄。白と黒の建物は、夕陽のせいで赤の彩りをみせていた。
歩くと、コツコツと靴音が響いた。
――靴音?
足元を見る。ローファーだった。さきほどまで、シューズだったのに。
藤の園は山の上にあった。電車を乗り継いで、二時間に一本しか出ないというバスに乗る。でもバスは山の麓までしか進まない。そこからは徒歩だ。だから歩きやすいシューズにした。小さな集落をこえて、山道をのぼる。
途中で、鞄の中から音がした。開けてみると、招待状ががさごそと音を立てていた。それは舞い上がって、薄紫の蝶になった。ひらひらと蝶に導かれているうちに、園についたのだ。
私は自分の服装を見て、念のためレイディーズ・ルームまで靴音を響かせて進んだ。女学院ではお手洗いをそう呼んでいたのだ。慣れないな、と入学当初は思った気がする。
レイディーズ・ルームの鏡に映るのは、やはり女学院の制服に身を包んだ、在りし日の自分だった。山登りをしていた私ではない。今より幼い顔立ちをして、長いスカートが野暮ったい自分。私はこの制服が似合わなかった。
「懐かしい」
藤の花が見せる幻影だろうか。それとも有栖さんが見せているのだろうか。
私はふたたび廊下を進んだ。
コツ、コツ、コツ。
端まで来て、横を向く。そこには階段がある。上階からだれかがおりてくる。靴音がしたから、分かった。
だれの足音か、私は知っていた。
踊り場を曲がって、有栖さんが姿を見せる。
踊り場の壁はガラス張りになっているから、彼女は夕陽を背負って歩く。燃えるような赤い光を浴びて、彼女の黒髪も赤みをおびた。やはり、周りの光に影響されて黒髪の色が違って見えるらしい。藤の花に紛れれば紫がかって、夕陽を背負えば赤みがかる。
彼女の本当の髪色は、どんなだっただろうか。
私はよく知らない。
有栖さんは一学年下の生徒だった。人形のような見目麗しい容姿は、女学院でも注目を浴びていた。それでも私は、彼女のことをよく知らない。興味がなかった。
女学院では少数の人間としか関わらなかった。友だち付き合いなんてどうでもよかった。私はただ、問題を起こさず、そつなく生活を送れたらそれでよかったのだ。
「あっ」
彼女が小さな声をあげる。規則正しく響いていた靴音が途切れた。妖精のように華奢な体が傾いて、ふってくる。大きな瞳がこぼれんばかりに見開かれた。
私はとっさに彼女を抱きとめた。
二人して、倒れ込む。
下敷きになった私は、声を出さずに叫ぶ。
幻影であれば、痛みなんて感じないようにしてくれればよかったのに。でも、そう。たしかあのときも、すごく痛くて私は一人悶絶していたのだ。
「すみません」
透明な声で彼女が言う。
目があった。彼女は私の瞳をじっと見つめる。
すっと私の痛みが引いた。実際、痛みがなくなったわけではない。彼女の存在にすべての神経が向いてしまって、その瞬間だけ痛みを忘れてしまったのだ。
間近で見る彼女の顔はとても綺麗で、私はそのとき――。
最初のコメントを投稿しよう!