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蕗 (77歳)
あの大戦が終わる前の年に生まれた、山上蕗は、もう77歳だった。
戦争孤児となった蕗は、親類の家を、たらい回しにされて育ち
10歳になるやならずで、大家族の農家に、貰われて行ったが
まだ幼い子供には過酷な、家事や子育てと言う、重労働が待っていた。
朝は、暗い時間に、たたき起こされ、大家族のそれぞれが
口々に言い付ける仕事を、すべてこなしてから、学校へ行く。
だが、もう授業は、3時間目や4時間目になっていて
疲れ果てている蕗には、学校の机は、ただ眠るだけの場所だった。
当然、成績は一番下で、なかなか風呂にも入れない蕗は
皆に、臭いと言われて、距離を置かれていた。
それでも、何とか中学校を卒業すると、待っていた様に、朝から晩まで
仕事仕事、牛や馬の方が、まだましだと思えるほど、こき使われた。
二十歳になった蕗は、その農家の親戚である、漁村の網元の長男に
嫁として迎えられたが、そこでも、ただの働き手にしか過ぎなかった。
掌に穴が開くほど、鯖の頭を折り、干物や鯖節を作る。
寒い冬の最中には、カタクチ鰯のメザシの製造。
冷たい風が吹き抜ける所に一日中座って、ひたすらメザシを作る。
夏の暑い時は、カタクチ鰯のイリコ作りで、熱い釜の傍で作業し
熱中症で、倒れた事も、何度も有る。
過酷な労働の所為で、折角授かった子供も、流産してしまう。
それが、二度、三度と続き、とうとう蕗の身体は、妊娠する事を拒んだ。
子供が産めない嫁は要らぬと、追い出され、一人で生きる羽目になったが
学歴も、何も持たない蕗が生きるのは、容易な事では無かった。
まるで、地を這うような生活を続け、何とか、その日その日を乗り越える。
だが、75歳になった時、蕗は、行き場所を失った。
そんな蕗を、引き取っても良いと言ってくれたのは、赤ん坊の時に育てた
あの農家の、戸籍上は姪になっている、千恵子だった。
厄介になりたくはなかったが、前の年に胃癌になって、摘出手術をしたので
それに、全てのお金を使った蕗には、もう、家賃も払えない状態だったのだ。
それで、やむなく、世話になる事になった。
手術後だし、足や腰にもガタが来ていたが、それでも、大学生二人を抱えて
夫婦で仕事をしている、姪の為に、汚した食器の、洗い片付け
洗濯をし、乾して、乾いたら畳む、簡単な掃除、宅配便の受け取り等
自分が出来る仕事を見つけて、夫婦の為に、働いた。
そんな生活が、2年経ったある日
蕗は、強烈な腰の痛みで、動けなくなってしまった。
病院へ行くと、腰に有る背骨の、骨と骨の間が潰れて
間隔が狭くなっているので、痛むのだと、レントゲンを見せられた。
70歳を過ぎた頃から、腰が重怠く、歩くのが億劫になっていたが
その原因が、これかと、納得した。
医者は「これは、もう治りません、周りの筋肉を強くして
少しでも楽になる様にしましょう」と、コルセットと、貼り薬と
痛み止めを呉れた。
「もう、治らないのか~長い間、酷使したからな~」
蕗は、自分の身体が可哀そうになった。
しかし、これでは、もう、姪の為に何もしてやれない。
却って、世話を掛けるだけだ、それだけは、避けたかった。
もう、ここまで生きて来たんだ、ここらで終止符を打っても
神様は、怒らないだろう、私が死んでも、困る人も悲しむ人も居ない。
蕗は、まだ、なんとか動けるうちに、自分の身の始末をしようと思った。
さて、そうは言っても、どうやって死ねば良いだろうか
今までも、何度も死を考えた事が有ったが、死ねなかった。
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