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勇者が死ぬまで、あと2日
重厚な鎧を纏った、1人の若い女が大きな城を見上げている。その城壁は黒く、禍々しい空気をこれでもかと放っていて、いかにも悪役の親玉がいそうな雰囲気である。
ツンとした独特の血生臭い空気に顔をしかめながら、彼女──シェイリーは魔王城を見つめた。
ふと、左頬に影が指す。横を見ずともシェイリーにはその影の主が誰なのか手に取るようにわかる。
左横を見るとまず銀の鎧が目に入った。銀をベースに朱色で装飾が施されたその鎧は、王家のものしか身に付けることができない代物だ。
視線を上にあげると、銀の瞳にかち合う。兜を外して晒されたその素顔は、畏怖を覚えるほどに整っていて美しい。初めて出会った時、シェイリーは心の中で彼を「歩く彫刻」と呼んだことがある。
彼──王弟ジルベール・ダルコフはこの国の将軍であり、今日までの1年半共に魔王討伐のために一緒に戦った仲間でもある。仲間と呼ぶのはおこがましいとは思うが、それでも彼と彼の部下達、すなわち王国軍はシェイリーにとって戦友に等しい。
「……怖いか?」
いつも通りの、抑揚がなくて低いジルベールの声だ。それを聞くと何故か安心してしまう自分がいることに、シェイリーは気づいていた。
「いいえ殿下、怖くないです」
まっすぐにこちらを射抜く視線に怯まなくなったのは、いつからだろうか。出会ってまだ1年半しか経っていないのに、とうの昔のように思えてしまう。
「……ただ、そうですね。予感がするんです」
「どちらのだ」
「良い予感と悪い予感、両方です」
シェイリーの含みある言い方に、ジルベールは片眉をあげただけであった。それから「いいから早く続きを言え」とばかりに、押し黙ってこちらを見ている。
もちろんそんな反応は予想通りなので、シェイリーは気にせず言葉を続けた。
「私たちが勝ちます」
「それが良い予感か?」
「はい」
「……悪い方は?」
「うーん……」
シェイリーは少し逡巡する様子を見せた。
「……なんだ」
「やっぱり予感に過ぎないですし、ごく個人的な事なので言うのはやめときます」
「…………」
銀の瞳が無言でシェイリーを見つめている。相変わらずの無表情だが、呆れているのが分かる。
誤魔化すようにシェイリーがニヤリと笑うと、1つため息をついてジルベールは後ろに控えていた騎士達の方へと行ってしまった。
少しずつ自分から離れていくその後ろ姿を数秒じっと見つめた後、シェイリーもその後に続くように騎士達の元へと向かった。
歩いた弾みにカシャリと鎧と擦れた彼女の腰に刺さった剣には、女神の加護が施された刻印が刻まれている。それをそっと撫でたシェイリーの緑の瞳に、仄暗く小さな陰りが見えた。
(……まあ、自分が死ぬ予感がするなんて、普通言えないよね)
少しだけ、ほんの一瞬だけ戦慄いた唇は、被り直した兜によって覆われてすぐに見えなくなる。
甲冑の目元から覗く緑の瞳はもう一点の陰りもなく、決意と覚悟の色に染まっていた。
そうして、勇者シェイリー・ダイルは最後の決戦をするべく魔王城へと足を踏み入れた。
◇
この国には魔術と神秘と、溢れんばかりの魔獣があった。
古くからこの国を司る女神の加護によって人類は魔獣達と渡り合えていたが、そのバランスが崩れたのはつい2年ほど前のことである。
魔獣達の王──魔王が誕生したのだ。魔王は世界を掌握するべく、人類を殲滅せんとした。
人々は度重なる魔獣の襲撃に苦しみ、世界の終わりを嘆いていた。
そこに女神が現れた。
女神は神託により1人の娘を勇者として選び、ただ一つ魔王を滅ぼすことができる剣、すなわち聖剣を与えた。
聖剣を与えられた勇者は、国王に協力を仰ぎ、王弟である将軍ともに魔王討伐を決行した。
そして、その勇者が魔王を倒したのがつい先日のことである。
どこを見渡しても人、人、人。彼らの顔には満面の笑みが浮かんでいるのが心地良い。
集まった王都の人々を馬車から見下ろして、シェイリーは口元を緩めた。
「私、帰ってきたんだなぁ……」
1人きりの馬車の中で零したその言葉は、車輪の音にかき消される。
それでも、胸の奥からせり上がってきたなんとも言えない感嘆の気持ちが言葉に出すことでより一層大きくなった。
今日でシェイリーが魔王を倒してから5日が経つ。現在、シェイリー達は民衆の溢れんばかりの歓声を聴きながら、馬車で王城に向かっていた。英雄の帰還──凱旋の真っ只中であった。
しばらく窓から民衆を眺めていたシェイリーだが、窓に乗り出す変な体勢で長時間いたせいか、腰がいい加減痛くなってきた。
(……少し体勢を変えた方がいいかも)
そう思って、シェイリーは窓から視線を移す。何となく、正面の何もない馬車の壁を見た。レンガ色の壁越しに、前を走っているだろう、もう1つの馬車のことを考える。シェイリーの1つ前を走っている馬車には、ジルベールが乗っているはずだ。
(そういえば、あの後から全然話してないなぁ…)
昨日のことを自然と思い出す。シェイリーは無意識に膝の上に置いていた左手をギュッと力強く握っていた。
だが、その左手とは対照的に顔は穏やかなもので、緑の瞳にはどこか諦念のような、魔王を打ち倒した勇者には有るまじき色があった。
握り込まれた彼女の左掌の中心。そこから長い袖に覆われた左腕には一筋の黒い蔦を象った紋様が絡みつくように刻まれている。昨日は手首を過ぎたあたりまでだったのにもかかわらず、今日の朝には肘のあたりまでに伸びていた。
後2日もすれば、この禍々しい紋様はシェイリーの左胸──心臓に届くだろう。
その意味を、シェイリーも理解していないわけではない。
シェイリーは、魔王から死の呪いを受けていた。
魔王からすれば、最後の悪あがきだったのだろう。
ただ、悪あがきで残りの寿命を奪われたシェイリーはたまったものではなかった。
聖剣をその胸に突き刺した瞬間、シェイリーは魔王に呪いをかけられた。
彼女の残りの寿命をすべて奪う強力な呪い、すなわち死の呪いである。
魔王としては相打ちのつもりだったのだろう。だが、幸か不幸か、聖剣の加護があったおかげでシェイリーにはその呪いが中途半端にかかってしまった。
即死というわけにはいかず、小指の先ほどの寿命が彼女の中に残った。それは日数にすれば1週間ほど。
その事実を告げた魔王は、呪いが半ば失敗したにも関わらず、たいそう喜んだ。
『哀れな勇者よ。何も分からないまま、私と死ねば良かったものを。お前は“死に追われる”という地獄を味合わねばならなくなった。……せいぜい悶え苦しめ、小娘』
その言葉を最後に、魔王は塵となり、彼の胸に刺さっていた聖剣は光と共に消えてしまった。
残ったのは左掌にくっきりと残った呪いの紋様、ただそれだけだ。
(……いや、違う。それは違う。残ったのは呪いだけなんかじゃない)
シェイリーは自分の中に広がっていた黒い感情を否定する。
それから切り替えるように首を振って、もう一度窓の外を見た。街の人々は旗を振っている。誰も彼もが笑っている。心の底から見たかった光景なのだ。この光景の為に、聖剣に選ばれたその瞬間から、彼女は勇者であり続けた。あり続けようとしたのだ。
これからこの国は未来に向かって歩き出す。終わりを嘆く時代は終わった。始まりに誰も彼もが胸を高鳴らせている。
ただ、そこにシェイリーの場所は無いだけなのだ。
◇
朝日が部屋の中に差し込んでくる。
カーテンの隙間をすり抜けた光の筋がシェイリーの瞼を柔らかく照らす。少し短い睫毛に縁取られた緑の瞳がゆっくりと姿を現わした。
「朝か……」
呟いた声は少し掠れている。後で水を飲もうとシェイリーは思った。
するりと上掛けから抜いた足を冷たい床に着ける。
今日は魔王を倒してから6日目。凱旋を終えた、次の日の朝である。昨日城に戻ったシェイリーは東棟にあるこの一室を案内された。
ここは前に城で何度か滞在した時にも割り当てられた部屋だ。最初こそ萎縮して部屋の隅で縮こまっていたものだが、今ではすっかり慣れてしまったのが少し怖い。
実は、魔王討伐に出たと言っても、聖剣に選ばれた後すぐに旅に出たわけではない。聖剣に選ばれたシェイリーはまず城に呼ばれたのだ。そこで王弟であり将軍でもあるジルベールと出会い、王国軍を率いて討伐に出た。勿論、そこに至るまでにも色々なことがあった。良いことも、悪いことも。
光が差して淡く光っているカーテンを開けると、眩しいばかりの朝日が目に飛び込んでくる。
新鮮な空気を吸おうと、部屋に備え付けられたバルコニーに出た。
戦うのに邪魔だからと肩口まで切ったシェイリーの赤毛が風に遊ばれている。
手すりに頬杖をついたシェイリーは、顎を支えていていない左の手のひらをじっくりと眺めた。
黒い紋様は二の腕を過ぎて肩のあたりまで来ている。
「……ピンピンしてるなぁ、私」
自分は本当に死ぬのだろうかなんて、無知な子供のようなことを考えてしまう。それくらいシェイリーの身体には痛みも何もなかった。
呪いをかけられた時こそ、何かに生命力をごっそり奪われた感覚がしたが、それ以降は何の異常もない。
ただ左腕に絡みつくこの黒い紋様だけが、「死」という意識をシェイリーに与えている。
しばらく自分の腕を眺めていたシェイリーだったが、ふとバルコニーの景色に目を移した。
シェイリーの部屋の真下は庭園になっている。よく整えられていて、城の中でもシェイリーが特に好きな場所だ。嫌なことがあった後は、よくあそこに行って心を癒していた。
その庭園の左側、シェイリーのいる東棟と直角に交わる位置にある中央棟は謁見の間などがある王城の要となる建物である。王族の居住域もそこにある。
あの後、凱旋を終えたシェイリーはそのまま国王と謁見した。
国王とは何度か顔を合わせたことがある。王弟のジルベールと顔はそっくりだが、まとう雰囲気、性格はまるで違う。一見、明るい優男のように見えるが、どこか飄々として腹の底が全く読めない。そして、極めて合理的な考え方を持つ。それがシェイリーが抱いている王の印象であった。
謁見前、何を言われるのだろうと緊張していたシェイリーだったが、昨日の謁見はあまりにもアッサリとしていて、少し拍子抜けしてしまった。
『勇者シェイリー、君はまさしく英雄だ』
『はっ、有難きお言葉を頂戴いたしまして──』
『ああもう、そういう堅苦しいんのは良いんだ。そんなことより先のことを考えよう。報酬をたらふくあげるから、何が欲しいか考えておくんだよ』
『で、ですが陛下、』
『大丈夫、ジルベールから書状で話は聞いてるから。また今度、ゆっくり話を聞かせておくれ』
そのまま旅の疲れを癒すようにとこの部屋に案内され、今に至る。後から聞いたところによるとあの後ジルベールとの謁見があったらしい。
(今思うと、陛下はどこか含みのある言い方だったけど……。そんなこと考える暇もなかったな)
呪いについてのこともロクに言えないまま謁見は終わってしまった。尤も、話したところでどうこうできるわけではないというのはシェイリーが1番よく理解しているのだが。
昨日の凱旋までの4日間のことを思い出す。
1日目は、あらゆる解呪の方法を探して試したが、ダメだった。
2日目は、国で最も優秀な治癒魔術師を訪ねたが、ダメだった。
3日目は、呪いについて国で最も詳しい研究者達を訪ねたが、ダメだった。
4日目に、シェイリーはジルベールに「もういい」と言った。
わかっていた。どんな手を尽くしても解けない呪いなのだと。魔王の心臓──いわば最上級の魔術の核とも言える場所から放たれた強力なこの呪いは、弱体化は出来たとはいえ、たとえ聖剣でも、果ては女神でも解くことはできない。
シェイリーが死ぬまで解けることはない呪いなのだと、みんな分かっていたのだ。
なのに、それを飲み込んでシェイリーのために奔走するジルベール達を見るのが苦しくて、これ以上見たくなくて、だから言ったのだ。彼らを自由にしてあげられるのは、それを言えるのは、シェイリーだけだったから。
「もういい」と言った時の、ジルベールのあんなに歪んだ顔を見たのは初めてだった。きっと最初で最後だろうな、と思う。それから今日まで、まだ一度も話していない。
その後のみんなは、シェイリーの要望通りに何事も無かったように振る舞ってくれた。
魔王の脅威は去ったのだと。もう、何も恐れるものはないのだと。そんな風に振る舞ってくれた。
それでいいと、シェイリーは思う。魔王を倒しても、みんなを笑顔にできないのは嫌だ。その原因が自分なのは、もっと嫌だった。
「……明日か」
ポツリと呟いた言葉は、凄く小さかった。だが、嫌に耳にこびりつく。
魔王城に入る前は平気だと思ったのに、覚悟していたはずなのに、こんなに脆いものなのか。
朝焼けのオレンジに包まれたバルコニーの上で、シェイリーは黙って遠くを眺めていた。
◇
その日の夜、空が藍色に染まり始めた頃、シェイリーはジルベールに呼ばれた。
場所は中央棟の最上階にあるジルベールの執務室であった。
ジルベールの執務室といえば、シェイリーがこの城で最も勝手知ったる場所だ。といっても、いい思い出はあまりない。
毎度毎度大きな作戦のたびに書かされた報告書の提出や、勇者になりたての頃、こってり絞られた議会の後の反省会(という名のシェイリーの議会での迂闊な発言に対する説教であったが)などで足繁く通った部屋である。
シェイリーは今でこそ勇者として信頼を勝ち得ているが、最初の頃はぽっと出のただの田舎娘としてか見られなかった。間違って牢屋に入れられたこともあるし、聖剣を持つだけでも議会で揶揄された。
女神の神託だからと、それだけで手放しに納得する人は決して多くはないのだと知らされた、今となっては良い思い出だとシェイリーは思っている。
部屋の前に着くと、扉を3回ノックした。ただし、最後3回目は少し弱めに。こうすることで誰が来たか判別しやすいからするようにとジルベールに言いつけられていた。
初めは「細かい人だなぁ」とシェイリーは面倒に思ったものだが、今では秘密の合図みたいで結構気に入っている。
「──入れ」
短い返事を合図に、シェイリーは部屋のノブを押した。1日ぶりに聞く声が、やけに耳に残る。
ジルベールは、部屋の中央奥のデスクに座って何かを書いていた。その右横の奥の壁には彼の私室に繋がる重厚な扉がある。といっても、シェイリーはそれが開いているのを一度も見たことがない。いわゆる開かずの扉というやつだ。
バタンと扉の閉まる音と同時に銀の瞳がこちらを見た。
「御用は何でしょうか、殿下」
「そこのソファに座れ。これが終わったらすぐに行く」
「あー……報告書ですか。大変ですよね、ソレ」
苦々しげな表情を隠しもせずにシェイリーは促されたソファに座る。
それを特に気にした様子もなく、最後の書類にサインを入れると、ジルベールは席を立った。
手持ち無沙汰に、ジッと壁際の本棚を眺めていたシェイリーは足音に気がついて振り返った。
「……気になる本でもあったか」
「いえ、気になるというか……魔術書が多いなーって思いまして。こんなに多かったですか?」
「……知り合いに貸していたのが昨日大量に帰ってきた。城を空けている間に一気に読んだらしい」
「へぇ、そうだったんですか。読書家なんですね」
感心したようにそう言ったシェイリーは、もう一度だけ本棚を見て、それ以降は興味は薄れたようであった。ジルベールはその様子をただじっと見つめていた。
「……今日は何をしていた?」
「今日ですか?今日はですね、えっと……」
シェイリーは今日の出来事を振り返る。
午前中は戦場を共にした馴染みの騎士達の所に会いに行き、そのまま昼食を一緒に食べた。
「みんな、殿下の話ばっかりでしたよ。あの時がかっこよかったとか、一生ついていこうと思ったとか。どっちが勇者だって感じですよ、まったくもう。少しは私のことも褒めて欲しいもんです」
不満を述べながらも、騎士達の昼間の会話を思い出したシェイリーの口は緩んでいた。
それを見てジルベールが口を開く。
「……そうだな。お前はよくやっていた」
「……………」
ゆるい笑みを浮かべていた表情から一変して、シェイリーは緑の瞳を見開いてまん丸にした。
怪訝な視線がジルベールから向けられる。
「どうした」
「……い、いえ、殿下から褒めてもらえると思わなくて……ちょっとびっくりしただけです」
シェイリーは少しはにかんで、頰をかいた。普段ジルベールが人を褒めるなんてことは滅多にないのだ。
照れを隠すため、話を続けんと口を開く。
「それでですね、午後はジェシー達と街に行きました。みんな私がお城に来た頃から親切にしてくれて……。今日はそのお礼にハンカチをプレゼントしたんです」
「……そうか」
ジェシーとは、シェイリーの世話係だった侍女だ。
猫目で気の強い印象を与える顔立ちだが、性格はとても優しく、仕事は丁寧で細やかなところに気がつく。そのギャップがたまらなくシェイリーは好きだった。
「殿下は今日は何をしていたんですか?」
聞かれてばかりではどうも気にすまないので、シェイリーも何となく聞き返して見る。
「……今日は、ずっと執務室にいた」
「ずっとって、どれくらいですか?」
「知らん」
「……まさか昨日の凱旋の後から寝てないってことはないですよね?」
「……………」
「どんな体力お化けですか貴方は!」
「……………」
若干引きつつも小言を言うシェイリーに、ジルベールは何も言わない。言ったところで倍になって返ってくることを1年半で学習していた。
「まったく、そんな調子じゃいつか倒れますよ。私もいつまでも側に居られるってわけじゃないん、……です、から、」
言っている途中で、シェイリーは自分が重大なミスを犯したことに気がついた。今最も、2人の間で繊細な話題を無意識に、そしてぞんざいに引き出してしまったのだ。
「…………」
「…………」
和やかな空気が一転して、2人が口を閉じると部屋は沈黙に包まれた。コクリ、と唾を飲み込む喉の音が聞こえるほど、部屋は静まっている。
「……怖いか?」
その言葉にハッとして、ジルベールの方を見る。銀の瞳がこちら射抜くように見つめていた。
「何が」怖いのかなんて、聞かずとも分かる。
「……いいえ殿下、怖くないです」
覚悟はしていたのだ。とっくの昔から。
ただ、一瞬ですむと思っていたことが7日に伸びてしまったから。
少しだけ、ほんの少しだけ、崩れそうになっただけだ。ただ、それだけなのだ。自己犠牲を嘆く感情なんて、とっくの昔に捨ててしまった。そんなもの、勇者であり続けるためには必要ない。
「……私は、今までやってきたことに後悔なんて1つもしてません」
「…………」
ジルベールは表情を変えない。何も言わない。
ただ、彼のこちらを見る瞳があまりにも強過ぎて、シェイリーは心の奥底まで見透かされているような、どこか恐ろしい気分になる。冷めた印象を与えるはずの銀の瞳の奥に、揺れる炎があった。
長い沈黙の後、彼はようやくポツリと言った。
「……お前は、いつも肝心なことは言わない」
「え……」
「どうでも良いことは喧しく言うくせに、肝心なことは言わないのは、何故だ」
「そんな、こと……」
「“もういいと”、“怖くない”と言うのなら、何故お前はそんなに傷ついている」
「そんなこと、な……」
「どうして、お前は泣いている」
「……っ、え、」
言われて初めて、シェイリーは自分が泣いていることに気がついた。それも一粒だけ、堪えていた何かが思わず出てしまったように流れたものだ。
腕が伸びて、彼の綺麗な指がシェイリーの顔へと触れる。そして、親指が頰を拭う。その手つきが優し過ぎて、まるで宝物に触れるようで、苦しくて息が止まりそうになる。
「生きたいと、言って欲しい」
「でん、か……」
「……言ってくれ、シェイリー」
少しかすれた、吐息のようなジルベールのその声は、懇願だった。
頰にまた一つ、また一つと涙が落ちていく。その一つ一つがシェイリーの心の奥に抑え込んでいた、もう殺したと思っていた自分を蘇らせていく。怖がりで、弱い、死を恐れる、ごくありふれた人間の心だ。
シェイリーは口を小さく戦慄かせた。
「……でん、かと、一緒に、生きたかった……」
シェイリーが言い切るよりも先に、その唇は目の前の彼に奪われた。
焦燥感と愛おしさの波に溺れて、頭がクラクラする。苦しくて、痛いのに、それが心地よく感じてしまうのは何故なのだろう。
視界いっぱいに広がるこの銀の色を、死んでも忘れないとシェイリーは心に誓った。
◇
ゆっくりとシェイリーは目を覚ます。
隣で眠る人物に一瞬驚いたが、すぐに昨夜のことを思い出した。
起こさないようにそっとベッドから出る。
この部屋はシェイリーの部屋よりも随分と広い。まあ、王弟の私室なので当たり前なのだが。
人生最後の日に執務室の「開かずの扉」を開くことになろうとは思いもよらなかったシェイリーである。
見渡すと分厚いカーテンから光の筋が漏れているのが見えた。そっと開けると朝日が全身を照らす。
眩い光に包まれたシェイリーはなんだか神聖な気持ちになる。
ふと、ひたりひたりと素足で床を歩く音がした。
振り向くと、銀の瞳と目があった。寝起きのはずなのに、その美しさは健在である。
「……おはようございます、殿下」
「…………」
「殿下?」
ジルベールから返事はない。ただ、じっとシェイリーを見つめている。
「どうかされましたか?」
「……随分と」
「はい」
「……随分と無理をさせたが、平気か」
「…………」
「…………」
少しの沈黙が落ちた。
シェイリーの頰がほんのりと色づく。
「…………はい」
「……そうか。ならいい」
そのまま近づいてきたジルベールに、シェイリーは抱きしめられる。
昨日初めて触れたはずなのに、どこか安心感を覚える不思議な感覚があった。じんわりと心の奥の方が温かくなっていく。それと同時にこの温かさをもう明日には感じれないのかという寂しさもあった。
「……殿下は、残酷な方ですね」
「…………」
「考えないように、言わないようにしていたのに、結局、私は生きることへの未練を捨てきれなかった」
「……シェイリー」
ジルベールに名を呼ばれるのは、まだ慣れない。永遠に、慣れないままなのだろう。シェイリーは銀の瞳をじっと見つめた。
ゆっくりとジルベールはその形の良い唇を開いた。
「……それでいい。そう思うことが、お前を生かす唯一の道につながる」
「……え?」
予想外の言葉に、シェイリーは己の耳を疑った。
ジルベールの目は真剣で、とても冗談を言っているようには聞こえなかった。
「お前に、私の寿命を分ける」
「…………」
「私と共に生きろ」
「…………」
人というものは、驚きすぎると咄嗟に言葉が出なくなるらしい。シェイリーはしばらく開いた口が塞がらなかった。
彼が提案したのは、自分の寿命をシェイリーに半分譲渡するという魔術だ。
魔王の呪いは、シェイリーが死ぬまで解けることはない。それは逆を言えば──死んだら解けるということだ。
つまり寿命がゼロになった状態のシェイリーに、ジルベールが魔術で自分の寿命を半分渡して彼女の寿命を増やしてやり、蘇生させるというわけである。
長い長い沈黙の後、ようやく頭の中を整理したシェイリーは言った。
「……それ、は、殿下の命を、私が半分奪うということですか?」
「奪うのではない。与えられるのだ」
「……寿命の譲渡は禁術では?」
「陛下からは正式な文書で許可を得ている。今回は特例で罪に問わないそうだ。魔王討伐の報酬の一つにしておくと言っていた」
「…………」
『報酬をたらふくあげるから、何が欲しいか考えておくんだよ』『大丈夫、ジルベールから書状で話は聞いてるから。また今度、ゆっくり話を聞かせておくれ』
一昨日の謁見での国王の言葉が頭の中で蘇る。あの時点で彼はもうこうなることを予想していたのかもしれない。
シェイリーを生かしておいて利益が出るのは事実だ。魔王討伐の象徴でもある彼女は、国の復興において人々の士気に大きな影響をもたらすだろう。
シェイリーの考えていることが分かったのか、ジルベールは言葉を続けた。
「……兄上が、純粋な好意だけでお前を生かしたとは言わない。だが、寿命譲渡に関する全ては私の意志で行ったことだ」
「……寿命譲渡は、強制されたわけではないと?」
「私自ら、一昨日の謁見で兄上に提案した」
その時ふと、シェイリーはジルベールの執務室にあった大量の魔術書を思い出していた。恐らくあれは、知り合いに貸したのではなく、術に関して調べるために彼自身が取り寄せた物ではないだろうか。
「お前が呪いにかかった時、寿命譲渡は既に頭の中にあった」
「…………」
「実行しようと決めたのは、研究者達を訪ねた後だ」
魔王討伐から3日目、呪いについて国で最も詳しい研究者達を訪ねた日のことだ。
そして、その次の日は───
「次の日、お前にその話をしようとした時、既にお前は生きることを諦めていた」
「……っ、」
「寿命譲渡の術は、譲渡される側の意識が強く関わってくる。本人にその気がなければ、生への執着がなければ術は失敗する。あの時のお前の瞳は……全てを拒絶していた」
「それ、は……」
「例えこの話をしても、お前は決して頷かなかっただろう」
否定はできなかった。シェイリーは気まずげに目をそらすと、少し俯いた。
ジルベールは暗い影が落ちたシェイリーの頰をそっと撫でると、上を向かせる。
朝日の光を受けて、緑の瞳はエメラルドのように煌めいていた。その瞳には薄い涙の膜が張っていて、目尻から一粒、流星のように涙が落ちる。
「……今の私は、浅ましいでしょうか」
また一粒、落ちる。
「貴方が、英雄として生きる長い命よりも、私と共に過ごす短い命を選んだことに喜びを感じている自分が、いるんです」
また一粒、落ちる。
「貴方に、とてつもない代償を払わせているのに、共に生きていけることが、どうしようもなく嬉しいと、思ってしまうんです」
また一粒、落ちる──前に、ジルベールの指がすくう。
「……生きたいと、願うお前は美しい」
「……っ、」
「勇者として気高く在ろうとしたお前も、私と共に生きたいと人間らしく思うお前も、その全てが、私は愛おしい」
「……でん、か、…………貴方は……」
涙が視界がぼやけて、ジルベールが霞んだ。瞬きを何度もしても、次から次へと溢れ出てくる。
歪む視界の中で、シェイリーはジルベールが眩しそうに目を細めて、微笑んでいるのを確かに見た。
「……私も、貴方が愛しいです」
「……そうか」
短い言葉と共に、再びジルベールに抱きしめられる。少しキツくて力強いその腕は、何よりも雄弁に彼の心を語っていた。
暫くの間その肩に顔を埋めていたシェイリーは、ふと顔を上げてジルベールの耳元に囁く。
「……殿下」
「なんだ」
「予感が、するんです」
「……どちらのだ」
いつかどこかでしたような会話だ。
ただ、少し前回と違うところがある。
「今回は、良い予感だけです」
「……言ってみろ」
抑揚がなく、低いジルベールの声が続きを促す。
その声がいつもより柔らかく聞こえるのは、シェイリーの気のせいではないのだろう。
「……私たち、きっと案外長生きしますよ」
そう言って、シェイリーは笑った。
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