紫陽花が濡れた日

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紫陽花が濡れた日

「すみません、雨宿りさせてもらえませんか…?  軒下で良いので」 涼やかな声に僕が玄関の方へ行くと、生垣に囲まれた我が家の入口に一人の女性がすぶ濡れで立っていた。雷鳴が轟く雨の午後だった。それがはるかだった。 父と母は仕事に出かけていて、兄は結婚して既に家を出ていた。一人でのんびりと休日を満喫していた僕は女性を一人招き入れるのはどうかと思った。けれど、外は酷い雨だ。 門前を飾る青紫の紫陽花の狭間で泣きそうにこちらを見ている彼女がまるで捨てられた猫のようで僕は惹かれるように家に招き入れていた。 玄関に入り、上がり框のところで待ってもらい、一番綺麗そうなバスタオルを引っ張り出して渡す。 彼女は寒いのか震えながらタオルを受け取ると、くるっと頭から巻いた。その姿が可愛らしく見えて思わず見とれていると、黒く艶やかな髪から雫がつたつたと滴り落ち、彼女はクシュンとくしゃみを二回した。 「傘を持って来なくて。ごめんなさい」 「よかったら髪乾かします?」 僕は洗面所からドライヤーを持って来て、コードを差す場所なんてない事に気が付き呆然とした。そんな僕の様子に彼女はふふっと笑ってくれ僕は恥ずかしくなって頭を掻いた。 「あー、じゃあ、洗面所、使って下さい」 「でも…」 「あ、えっと、僕、外に出てますよ」 傘と家の鍵を掴んで外に出ようとしたら、腕を掴まれた。 「いえ、外は酷い雨ですし…ここにいらして下さい」 彼女は目を細めて笑った。目尻に皺が寄り表情が優しげなものに変わる。両頬には小さなえくぼが寄った。すぐ近くで見えたその笑顔に僕の口はぽかりとだらしなく開いた。 彼女が髪を乾かしている間、せめて温まって行ってもらおうと台所へ行き戸棚を漁った。カップ麺の園の中に未開封のスティックコーヒーの箱を見つけた。賞味期限はまだ半年ある。それを開封してお湯を沸かしていると、背後に彼女の気配を感じた。 「あの、ありがとうございます」 振り返ると彼女が立っていた。 乾いた髪は艶やかな黒で胸下辺りまであり、彼女のお辞儀に合わせてサラサラと動いた。 「コーヒー、良かったらどうぞ」 「ありがとうございます。あの、私、やりますので座っていて下さい」 台所から押しやられるように、居間のテーブルに座らせられた。 お湯を注ぐ彼女のスラリとした後ろ姿を眺める。 あんな綺麗な女性が奥さんだったら幸せだろうな。 じっと見ていたらふいに彼女が振り向いて微笑む。 恥ずかしくなって目を逸らした。
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