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五話「せんたくだけを持ち出したの?」
痛む頭と動かない体を引きずりながらホテルに荷物を取りに行って、チェックアウトの手続きをして、行きよりもゾンビみたいに体を引きずって戻って来た。
まだ五月とはいえ、日差しが急にきつくなってきて気温も高い。日焼け止め塗るのめんどくさくて長袖長ズボンだから……余計に暑い。
「おい、お前どこ行く気だよ」
「……あれ? 慶壱じゃん。なんでここに?」
先生の家と私が泊まってたホテルは三駅離れてて、慶壱を荷物持ちにさせようと誘ったけど断られ、一人寂しく荷物取りに行ってたんだけど……なんで駅に慶壱がいるの?
「お前、あの家がどこにあるかわかってないだろ」
「確かに、どこにあるか知らないわ。駅に向かう時は気持ち悪くて周りのこと全然見てなかったし」
「はぁ……そんなことだろうと思ったよ。それに、方向音痴のお前に住所送ってもわからないだろうと思ったから、駅まで向かいに行くのが一番楽だと思って」
「気が利くじゃん!」
「お前のお守りを何年やってると思ってんだよ」
慶壱に無理矢理荷物を持たせると、重かった体がほんの少しだけ楽になる。
先生の家の最寄り駅。ここは私が三年間通った高校の最寄り駅で、慶壱の地元でもある。
何度も見た不思議な銅像に順序良く並ぶ雑居ビルたち、そして突然現れる大きな都立庭園の緑。このアンバランスな光景がまた日常になるらしい。
「私、この町と縁があるみたい」
「そうだな」
ぼうっとビル風が吹いて私の髪がぱらぱらと宙に浮かぶ。こういう時はこの長い髪がうざったくて仕方ない。後ろで一つ結びにした後、結び目に髪をぐるぐると巻き付けてお団子にする。
腰ぐらいまである髪の毛が一つにまとまると楽だけど、頭が一気に重くなってあんまり好きじゃない。
「先生の家って駅から近いの?」
「ここ曲がった坂の途中」
「駅近物件じゃん! 嬉しい」
私がきゃっきゃと喜んでると、慶壱は深くて重いため息をつきながら私を見てくる。
「お前、本当にあれでいいのか?」
「雇われること? 住むこと? どっちのこと言ってるの?」
「どっちも。昨日会ったばっかりのよくわからない男のこと信用していいのか? 書面にしてもらったとはいえ、信用できないだろ」
「まぁ、そりゃね、私もそう思ったんだけどさ」
道を挟んで反対側、都立庭園の緑が青々しい。坂の途中ってことはこの都立庭園が目の前なのかー四季折々の風景が楽しみ。
なんて思ってる、って本音を言うと慶壱は怒りそうだからもう少し取り繕った言い方にしよう。
「私、家住めなくなったし上司に喧嘩売ってクビになったわけじゃん? 二十二歳でだよ? そんな私が一晩で家と仕事を手に入れたのはとてつもない強運だと思うの。どんなに危険だとしても、このチャンスは簡単に手離したくない」
「それはわかってるけど……」
「慶壱、大丈夫だから。心配してくれてありがとう」
慶壱はもう何も言わない、なんて顔をして立ち止まった。
坂の途中、シックな印象のお店。カフェ……なのかな? コーヒーのいい香りがするお店の横に階段がある。慶壱はその階段を迷わず上がって行く。
どうやらここが、これから私の仕事場兼家になる場所。
「おーい、とりあえず知世の荷物ここ置かせて貰うぞ」
「どうぞー、冷蔵庫にお茶入ってるからそれ持っていっていいよ。水分補給しっかりしながら片付けてね」
慶壱の後ろをてくてくと付いて行って、先生の部屋に改めてお邪魔する。
今思えば大好きな小説家の家って……すごい、改めてすごすぎる。何この状況。
「あれ? 美本の荷物それだけ? 少なくない?」
私が悶々と悩んでいる様子なんてお構いなしに先生が聞いてくる。
「上の部屋が火事になった時に慌てて逃げたので、あんまり物持てなくて……トートバッグ一つで全部入るぐらいしかないんですよ」
「あっ、そーだ。あれ見せれば?」
「は? あれって……?」
私の許可も取らずに慶壱はがさぞそとトートバッグを漁り始める。女の子の荷物を勝手にいじるな馬鹿。
「これこれ、火事から逃げ出した時に持ってた数少ない物の一つ」
慶壱がトートバッグから取り出したのは表紙がぼろぼろの文庫本。
「これって……」
「咄嗟に持ち出すぐらい、こいつはあんたの本が好きらしいよ」
それは四季さいの二番目の作品。私が初めて四季さいを知った本でもあり、一番好きな作品。
タイトルはせんたく。高校三年生の三人の男女が進路に悩む一年間のお話。
当時の私にとてつもない影響を与えた作品。
「うわっ、ちょ、恥ずかしいから!」
慶壱が先生に渡したせんたくをばしゅっと乱暴に取り返す。
「なんでだよ。好きはちゃんと伝えた方がいいだろ」
「そりゃ、そうだけど……にしたって恥ずかしいじゃん!」
ファン心と乙女心がわかってない女の敵め。慶壱のあほんだら。
「僕の本を咄嗟に持ち出したの?」
「えっ、と……まぁ、そうです」
恥ずかしい。顔がとてつもなく赤くなってるのがわかる。頭から水被りたいし穴があったら入りたい。
「せんたくだけを持ち出したの?」
「無意識にせんたくだけ持ってて……他の本も部屋にあったんですけど、あとは全部濡れちゃって……すみません」
先生はぽかんとしたまま固まっちゃった。
慶壱もどうすればいいかわからなくて動かなくなってる。何この空間、私はどうすればいいんだろう……?
「ちょっと待ってて」
先生は前触れなく突然動いて、隣の部屋に入った。がさごそ、がさごそ。そんな音だけが聞こえてきて、私は慶壱と目を合わせてどういうこと? なんて言い合う。
「あった!」
先生は大声と一緒に部屋から出てきて、私に両手を差し出す。
「これって……」
正確には、両手に持ってる本たちを私に差し出してる。
「僕の作品全部の初版。せんたくもボロボロだから一緒に渡すね。全部見本誌で貰ったやつだから日焼けして茶色いかもだけど、あんまり気にしないで」
先生が、四季さいが、自分の作品全部の見本誌を私にくれるって言ってる……?
夢かと思ってほっぺたつねると痛い。その痛みのせいにしたいけど、どうやら無理らしい。
もうすでに、視界がぼやけてる。
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