一章

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八話「凡庸性の高い」  玄関で倒れてた男の人を先生が足でつつくと、男の人は慌てた様子で口を押えながらトイレに駆け込む。 「おっ……おぅぇ……げっ」 「みんなして僕の家をなんだと思ってるんだよ……」  私と慶壱、そして今来た見知らぬ男の人。  一日に三人もの人にゲロを吐かれたトイレが可哀想に思えてくる。今度壁と床も含めてぴかぴかに掃除しよう。 「東」 先生がトレイに向かってそう呼びかける。どうやら見知らぬ男の人は東という名前らしい。 「鞄……かばっ、うぇ」  先生ははぁとため息をついて玄関に落ちてる鞄を拾う。中をがさごそと乱暴に漁って目当てのものを見つけたらしい。鞄を雑に放り投げてリビングに戻る。 「あの人……は?」  座り直す先生に向かって慶壱が恐る恐る聞く。 「東、僕の担当編集」 「担当編集って……あんな人が?」 「そう。あんな人が」  私も慶壱と同じ気持ちでいる。  ちゃんと見たのは後頭部だけだけど、襟足が長い茶髪だった。なんか、こう、言葉を選ばずに表現するならば……チャラい。その一言に尽きる。 「仕事が特段できるわけでもない女ったらしのくそ男。それが僕の担当編集の今トイレでゲロ吐いてる男」  まだちゃんと顔を見たわけでもないのに、ものすごい偏見だけが植え付けられていく。 「おぇ、口の中最高に気持ち悪っ」  トイレから出てきた人、東さんとやらはリビングにいる私たちを見つけると、ぱちくりとわざとらしい瞬きをする。  瞬きしたって私たちは消えません。 「……あっ! 昨日の居酒屋にいた女の子!」 「あぁ、言い忘れてたけどこいつが美本と意気投合した連れね」  前言撤回。どうやらしっかり顔を見てるし話したこともあったらしい。記憶は一切ないけど。 「知世ちゃんだったよね?」 「……あっ、はい! 知世です、美本知世と申します。これからよろしくお願いします」  私が頭を下げて挨拶すると、不思議な空気が流れ始める。何ごとかと頭を上げると東さんがはて? と言いたそうな顔を向けている。 「これからよろしくお願いします……?」 「それについては僕から説明する」  先生が今朝からの一連の流れを説明してくれる。その間、私と慶壱はすき焼きを食べてるだけ。慶壱はともかく、当事者の私がこんなんでいいのかと思いつつ、楽だから知らない顔してすき焼きを食べる。美味しい。 「なるほどね。俺が会社に行ってる間にそんな面白展開になってるとは」  東さんの感想は舐め腐ったものだった。私の人生が変わった一日を面白展開の一言で表すな。まぁ、間違ってないから反論できないのが悔しいところ。 「じゃあ、俺とはこれからよろしくってことになるね。理解理解。俺は玄雅の……いや、この場合は四季さいの方がいいか」  今この瞬間、東さんの第一印象はやかましいで決定した。 「四季さいの担当編集の東恭です。知世ちゃんこれからよろしくね」  東さんはばちこんと音が出そうな下手くそなウィンクを私にしてくる。これは確実に私の苦手なタイプだ。頭を抱えるしかない。 「東、嘘は良くない」 「嘘?」  きょとんと私が質問すると、東さんはあたふたと慌て始める。 「こいつの名前は」 「だぁー! 玄雅! 黙ってろ!」 「東恭じゃなくて」 「やめろって!」 「(あずま)恭蔵(きょうぞう)」  飛びつこうとした東さんを先生はひらりと交わす。どさりと無慈悲な音とともに東は床に転がる。 「東、恭蔵、さん?」  私がそう言うと、東さんは真っ赤にした顔を両手で覆ったままぐるぐるとのたうち回る。邪魔。 「やめろぉ……言わないで……恥ずかしいから、後生だから……お願いです」 「そんなに恥ずかしがらなくていいのに」 「お前は! 玄雅なんてかっこいい名前してるだろうが! そんなお前に俺の気持ちがわかってたまるか!?」  やかましくてチャラくて邪魔、その上情緒も不安定らしい。キャラが強烈過ぎてついていけない。 「そういえば、そこの人はなんて名前?」 「慶壱です」 「はぁー!? 慶壱?」  どっから出したと突っ込みたくなるような汚くて甲高い声。 「なんだよ、なんでみんなしてそんなにかっこいい名前なわけ? 俺は恭蔵なんだよ、恭蔵……きょうぞう!?」  そしてそのままがばっと立ち上がって天を仰ぐ。東さんの目からすっと涙がこぼれるのが見える。  私と慶壱は引くことしかできないし、先生は知らんと言った顔ですき焼きを食べ進めてる。何このカオスな空間。誰かどうにかして。 「あぁ……なんで神様はこんなにも不公平なんだよ」  神様じゃなくてお前の両親の話だろうが、なんて先生が突っ込むも東さんは聞いてないらしい。カオスは続く。 「なんで恭で止めなかったかな? 恭雅とか恭壱とかさ……こんなにも凡庸性の高い恭って名前になんでよりによって蔵をつけたのかな……」  慶壱も諦めたらしい。先生の真似してすき焼きを食べ始める。順応するの早くない? 私はまだ驚きと衝撃ですき焼きを食べるどころではない。 「俺ももういい大人なのに、こんなことで騒ぎたくないのにさ……こんな名前のせいで俺の人生真っ暗よ」  そう言うと東さんはへなへなと床に座り込んで膝を抱き抱える。いわゆる体育座り。ちっちゃく丸く座り込んでぶつぶつと呪いのように何かを言い続けてる。 「いつものことだから、美本も東のことなんて無視して食べちゃいな」  私はこれからこんなにはちゃめちゃな人と関わらないといけない。その事実と向き合いたくなくてお酒を流し込んで、すき焼きをがつがつと食べる。冷めてて肉が硬い。美味しくない。
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