一章

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九話「逃げんなよ」  さすがに冷えたすき焼きは美味しくない。  もう一回温め直して東さんにどうぞと取り皿を渡すとありがとう、とにぱっとした笑顔ですき焼きを食べ始める。 「これ……豚肉?」 「私の家のすき焼きはこうなんです」  同じ会話をするのが面倒くさくて有無を言わさないようにぴしゃりと強めに言うと、東さんはあぁそうと言ったっきり何も言おうとしない。よっしゃ、思惑通り。 「あっ、そう言えば編集長から玄雅に伝言伝えとけって言われてたんだわ」 「編集長が……? はぁ、どうせくだらないことでしょ」  編集長、という言葉の意味はわかってる。わかってるつもりだけど、きっと私が思い描いてるのはぼんやりとした輪郭だけで、編集長という言葉の中身は知らない。 「今までで一番面白いってさ」  編集長ってのは編集者の東さんの上司ってことはわかるけど、作家である先生とどういう関係なのかはわからない。  けど、にやりと嬉しそうに笑う先生の顔を見る限り、仕事上だけの関係ってわけではなさそう。な気がする、ただの感。 「編集長に伝えておいて、僕を誰だと思ってるの? って」 「りょーかい。その鼻につくドヤ顔も再現して伝えておくわ」  東さんがドヤ顔といった先生の顔。確かにドヤ顔はドヤ顔なんだけど、その他の感情も入り交じって見える。どういう感情なのかは他人の私が理解できることじゃないけど……なんだか楽しそうな、自慢げな感情がたくさんつまった、そんな表情。 「すき焼きもなくなったし、そろそろ宴もたけなわ。お開きにしよっか」 「小説家が間違った言葉を使うな」  東さんの突っ込みに先生はこのメンツで盛り上がると思うの? なんて意地悪く聞き返す。確かに、昨日会ってはいるらしいけど記憶がないから私にとっては今日が初めましての人たちと、ちょっとぎこちない慶壱。  盛り上がるわけがない。 「じゃあ、俺朝から用事あるんで先帰ります」  さっさと玄関に向かう慶壱を見送ると言って私も急いで立ち上がる。  慶壱が私を待たないで外に行っちゃうから、先生のものであろうサンダルを履いて外に出る。サンダルはぶかぶかで歩きにくいったらありゃしない。 「慶壱!」  階段をかけおりて大声で名前を呼ぶと、振り返ってはくれないけど止まってくれた。 「逃げんなよ」  言いたいことはたくさんある。色んな言葉を言いたいはずなのに、出てきたのは思ってもみなかった言葉。  優しい慶壱だからこそ悩んでくれてるのに、そんな慶壱に逃げんなよはないでしょ……。 「逃げねーよ」  振り返りもせずに慶壱は歩き出す。  何か声をかけたい。いつも別れ際にはまたね、なんて言ってたけど今またねというのは違う。  いつも次会う約束なんてしてなかったけど、それでもまたねって言える関係が好きだった。そんなことを考えてたらいつの間にか慶壱の姿は見えなくなってて、思わず笑っちゃう。  今まで慶壱を散々縛り付けてたくせに、こんな時だけ慶壱の気持ちを考える偽善者。最低な自分に笑うことしかできない。  私がいるせいで慶壱に迷惑かけて苦しめてるのに。 「知世ちゃん、この時間に大声はだめだよ」  先生の部屋に戻ると食器洗いをしてる東さんに怒られる。  すみませんと謝るとまぁそんなことよりさぁ、と話をぶった切られる。自由人め。 「知世ちゃんと慶壱くんは何なの? どういう関係?」  嫌になる。  いつもこう。慶壱と二人でいるとみんながこうやって聞いてくる。  付き合ってた時はいいとして、別れた後は興味津々な目でみんな聞いてくる。  いいじゃん、なんだって。  私と慶壱の関係は私たちだけのもの。関係性をなんでわざわざ言葉で表さないといけないの? なんであんたたちにそれを言う必要があるの? 「腐れ縁です」  心の中で思ってることを顔に出さないように、いつもと同じ言葉をはき出す。  もう慣れた、なんて思ってはいてもやっぱりいい気分はしない。 「俺はてっきり好き同士かと思っけど、実際のところはどう?」 「……お互いに恋愛感情はないですよ」 「そうなの? 慶壱くんなんて知世ちゃんにベタ惚れに見えたけどな〜」  しつこい。うるさい。黙れ。  あんたが慶壱の何を知ってるの? 私の何を知ってるの? 昨日知り合ったやつがなんでこんなにも自信満々に私たちのことを決めつけるの?  いつもだったら何とも思わないのに、今は東さんの言葉がずぷずぷと音を立てて突き刺さる。  お酒のせいにして泣きじゃくりたい。 「東、これのことちょっと聞きたいんだけど」  テーブルに座ってパソコンをいじってた先生が東さんを呼ぶ。食器洗いをしてた東さんは手を洗って先生の隣に座る。 「美本、食器洗いの続きお願いしてもいい?」  はい、と答えたいところだけど声を出したら泣きそう。こくりと頷いてキッチンに立つ。  先生と東さんは私に背中を向けてパソコンの画面を見ながら喋ってる。食器が擦れる音、水が流れる音。  今ここなら、誰にも見られないし鼻をすすったって音も聞かれない。  なんで泣くのかわからないまま、食器洗いをする。  ちらりと先生たちの方を見ると先生と目が合う。やばい見られた。慌てて服の裾で涙を拭いてると先生は何ごともなかったかのように視線をパソコンに戻す。  あぁ、これはだめ。と思ったら最後、感情だけが前に突き進む。もうこれは止められない。
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