26人が本棚に入れています
本棚に追加
/60ページ
一章
一話「何から何まで」
目が覚めた、のは、ほんの少し前のこと。本当にちょっとだけ前。多分五秒ぐらい前。
目の前に広がるのはべちょべちょした何か。そのべちょべちょしたものは臭い。そんな臭い何かから離れようとガバッと体を起こすと首がぐきり、と音をならす。どうやら首を変な方向に曲げてテーブルに突っ伏して寝てたらしい。痛い、という気持ちと同時にほっぺたを何かがつたってべちょりと服に落ちる。
あ、拭かないと。そんなことを思って下を見る。と、服に付いてるのはゲロ。だいぶ消化されたゲロ。細かいゲロ。
「……最悪っ!きったな!」
反射的に大きい声が出た。
恐る恐るほっぺたを触るとテーブルに触れてたところはゲロがまとわりついてる。ほっぺた、手、服とゲロまみれ。何なのこの最悪な状況。
ふとテーブルを見ると、ゲロが落ちるか落ちないかぐらいのギリギリまで広がってる……ように見えた。けど、ちゃんと見直すと下のカーペットにもゲロが落ちてる。あぁもう、本当に最悪。
この頭の痛み、吐き気、朧気な記憶とテーブルに広がるゲロとゲロまみれの私。
やらかした。これは確実にやらかした。
もう二度とお酒は飲みません。今度こそ本当です。本当の本当に飲みません。
痛む頭と吐き気を我慢しつつ、とりあえず体についたゲロをティッシュで拭き取って手を洗う。
あーもうどうしよう。人の家でゲロ吐くとか最悪すぎじゃんか。
……人の、家?
蛇口から流れる水を呆然と見つめる。あぁみずつめたくてきもちいな。じゃない、そんな場合じゃない。現実逃避するな現実を見ろ。
私……こんな部屋知らない。明らかに私の知ってる誰かの家じゃなくて、私の知らない誰かの家。
こんなキッチン知らない。あんなローテーブルも家具の配置も……全部、全部知らない。
「ここ……どこ?」
「ね……っむい」
がちゃんと開いた扉から出てきたのは見知らぬ男の人。部屋着ってことは……この家の家主?
「あっ、やっぱり吐いてた。さすがに僕が片付けるのは嫌だから自分で片付けてよ。うわ、カーペットにも垂れちゃってるじゃん。責任もって洗濯したあと干すこと」
「……それについては本当に申し訳ないです。ちゃんと片付けはします。絶対ちゃんとするので質問なんですけど……ここ、どこですか? それと……あなたは?」
「やっぱり覚えてないんだ」
見知らぬ男の人はやっぱしねなんて言ってる。真顔で言うもんだから感情が読み取れない……何この状況。
「意識ないんだろうなって思ってたけど、同意した事実は変えられないからね」
「……同意?」
「そう、これ聞いて……って言いたいところだけど、その前にテーブル片付けてカーペットも洗濯しないと。あと、着替えてもらわないとね。僕の服貸してあげる」
男の人は責任もってとか言ってたけど、てきぱきとテーブルの上を綺麗にしてくれるし、テーブルを持ち上げてくれてカーペットを取りやすくしてくれた。それに、洗濯機に入れたあとの操作もしてくれた。
大変ありがたいけど、大変申し訳ない。
「これなら女の人でも着れると思うから、隣の部屋で着替えてきて」
「すみません……何から何までありがとうございます」
「いえいえ、気にしないで」
言われるがまま隣の部屋で着替えてから、男の人がいる部屋に戻るとお茶を淹れてくれてるらしい。
「あ、座ってていいよ」
知らない人の家でゲロ吐いて片付けを手伝ってもらって服まで借りてるのに、お茶を淹れてもらうなんて。申し訳なさで胃に穴が空きそう。
「紅茶淹れたんだけど砂糖かミルク入れる?」
「あっ、だい、大丈夫……ですので」
男の人はそっかーと言うと、ふんわりと微笑んでから私の隣に座る。
「まぁあれだよね。ここがどこかわからないし、僕が誰かも知らない。こんな状況恐怖しかないよね。心中お察しします」
「それは……どうも」
「そんな恐怖心を消し去る為に、こちらの音声をお聞きください」
ぽちっとな、なんて大袈裟で楽しそうな声を出しつつ、男の人はスマホの音声を再生する。なんだかいたずらしてる男の子みたい。ちょっと可愛いかも。
『あーあったあった、これだよね。音声録音とか初めて使う機能だからわからなかった』
聞こえてくるのは男の人の声。
『美本知世さーん、大丈夫そう?』
『あははっ、なになに? なにか始まるの?』
それと……自分の声。酔ってる時はテンション高くなるのは知ってるけど、記憶がなくなるぐらい飲んでる時の自分の声聞くのって軽く拷問じゃね? 今更だとは思うけどとてつもなく恥ずかしい。
『さっき僕が言ったこと覚えてる?』
『はぁーい! ちゃ〜んと覚えてますよぉ』
これは本格的に拷問になってきた。今すぐこの音声データを消したい。
「これ……聞かないとだめですか? すごい嫌なんですけど……」
「だめです。ちゃんと聞いて」
男の人は何がしたいの……? ってか、何のためにこの音声を録音しようと思ったの?
『じゃあ言ってみて』
『えっとね、あんたが私を雇ってくれる!』
は? 待って、待て待て待て。私今なんて言った?
『すごいじゃん、ちゃんと覚えてる』
『舐めてもらっちゃ困りますよーだ!』
恥ずかしいとかそんなこと言ってる場合じゃない。雇うって何?
『あんたは私を雑用係として雇ってくれて〜そんでもって、住むところも提供してくれるんでしょ〜?』
『そうそう。これで同意の上って証拠になるよね』
音声はここまでらしい。スマホの画面を覗き込むと最後まで再生してある。
「ってことだから、よろしくね」
「……はぁ!?」
私、美本知世、お酒による失敗を更新。
やっぱりお酒はもう飲みません。今度こそ誓います。今回はまじ。
最初のコメントを投稿しよう!