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暗闇の中で、独りの男、酔いどれの足取り。住宅街に入ったせいか、光は殆ど無く、街灯の弱い光だけが夜風に靡いている。
「おじさん、具合でも悪いの?」
少女が声を掛ける。男が驚いて振り返ると、そこには娘そっくりの、小学校低学年ほどの背丈の少女が立っていた。夜光虫のように、街灯の細い線にぴったりと寄り添って立っていた。妙なことに、右手には真っ赤なヘリウム入りの風船を持っている。風船と少女の手を繋いでいる紐の部分は、揃えて測ったらちょうど少女の背丈と同じくらいの長さだろう。妙なのは、やはりどう目を凝らして見ても、男には自分の娘がそこに立っているように見えることだ。違うのは、風船と同じ色の真っ赤なワンピースを着ていることだけだ。豪奢なドレスのようにも見える。中世ヨーロッパの、嫌に大人びた子供の絵のようだ。
「具合が悪いも何も、こうも不景気だとね、酒に浸るしか趣のあることが無いもんでね、お嬢ちゃん」
「何故独りで歩いているの?お仲間さん達は?」
「仲間とははぐれちまったんだ。終電も逃したし、嫁はどうせ迎えに来てくれねぇから、こうやってポツリポツリ歩くしかないわけだ。分かったかい?お嬢ちゃん」
「ふ~ん、そうなんだ。それじゃ、早く帰った方がいいね」
「大人をからかっちゃいけねぇお嬢ちゃん。お前さんが声を掛けて来たんだろう?」
「そうだよ。少しね、パパに似てたの。少しだけね。パパはちゃんとエミリって呼んでくれてたけどね。『お嬢ちゃん』じゃなくてさ。それに、お酒も飲まなかったわ」
「お嬢ちゃん、またそうやってからかおうという魂胆だな。エミリは俺の娘の名前だ」
「じゃあ、貴方がパパだっていうの?」
「そんなわけないだろ!」
男は見下ろすように、覆い被さるようにして少女を怒鳴った。破裂しそうな、何かを失いそうな程の大きさの声で。
「やっぱり貴方は違うわ。パパは絶対に怒鳴ったりしないもん。パパはいつでもニコニコ笑って、心優しい寛容な人だったもん」
「すまない……本当にすまなかった、お嬢ちゃん。事情ってものがあるんだよ。すまなかった……」
「いいのよ。気にしてないわ。こうも不景気だと、みんな気が立つものよ。それにエミリのパパは、とっくの前に死んじゃってるから」
男は見上げる少女の目線から逃げると、住宅を囲むブロックに手を突き身体を支えながら大いに嘔吐した。
少女はそれを敢えて見ないようにか、機械みたいにまるで定位置に戻るように真正面へと向き直った。
「おじさん、具合でも悪いの?」
「君は本当に、悪戯が大好きなんだな、エミリ」
「パパをね、ずっとここで待ってたの。ず~とずっと、待ってたんだよ」
「ただいま、エミリ」
「おかえり、パパ」
「パパは幽霊になちゃったの?」
「パパはまだ生きているよ。エミリはどうなんだ?ママと一緒だったはずだろう?」
「エミリとママはね、世界がこうなってすぐに、交通事故で死んじゃったんだよ。ママはパパを一生懸命探して、ビュンビュンと魚みたいに車を飛ばしてたから、恐かったけど、正直アトラクションみたいで楽しかったの。でもね、すぐにガッシャーンよ。顎も飛び跳ねちゃった」
「そうだったのか……何もしてやれなくてごめんな。俺が非力なせいで、家族を死なせちまったってことなんだな」
「何を言ってるの?パパは沢山エミリとママを愛してくれたじゃない。それが全てよ。この腐り切ってしまった世界の中で、唯一輝いていた全てなの」
男は涙した。街灯に向かってわんわん泣いた。すると奇跡が起きた。野良猫の放尿から、大きな虹が発生するような、類い希なる奇跡だ。
鋭い針で水風船を割った瞬間を、スーパースローで見ているようだった。コンドームみたく薄く、深海みたいな暗闇が、一瞬にしてパリンと割れて晴れたのだ。暗闇が包み込んでいたものは男の涙と街灯の光。中心で渦になって、地球に似た球体のまま、形を保存していた。
朝焼けの中で、独りの男、酔いどれの足取り。剥がれ落ちる皮膚、飛び出した目の玉、丸出しの頸骨。腐敗しきった世界で腐敗しきった男は、まるで酔っ払いみたいに、大地を重い足枷にして歩く。
太陽が人智では遡れない程の期間変わらぬ嫌らしい顔を表に出すと、男の皮膚は強い日焼けをした後みたいに、ペリペリと明確に剥がれ始め、鰹節のようにゆっくりと宙を舞った。桜の花びらが逆さまに散っているようでもあった。
男の身体は内容物すら余すこと無く、ほんの数秒で塵になって、空に還元された。
監視カメラがそれを追う。
「やはり七日で日光に負けるのか。この特性が確かならば、まだ人類に勝機はあるぞ」
「変異後の期間中に新たなゾンビを生み出さなければ、地域によって殲滅できるということですな。神が七日間で世界を創造したように、我々も七日間で新しい世界を創ることができます」
地下の研究員たちは、希望を目に輝かせた。
「おい、あれはなんだ?」
研究員の一人が驚きの声を上げ、地上の監視カメラの映像を大きなモニターに写し出した。
真っ赤な風船が、宇宙に向かって泳いでいた。
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