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私はウォールクロックの時刻が20時30分を刺している事に気付くと真澄との電話を切り、ベランダの窓を開けた。
午後20時過ぎから20時半まで、キッチンの前で珈琲豆の手煎り焙煎をするのは私のちょっとした趣味の一つだ。
焙煎中は換気扇も回しているんだけど、それだけじゃ豆から出る水蒸気のモヤや焦げ臭さは解消されない。
気温が暖かくなってきたら焙煎中も窓を開けるんだけど、4月初旬の夜はまだまだ寒いから今の時期は焙煎直後に窓を開けて空気の入れ替えをしていた。
「風が気持ちいい……」
今日は日中から慣れないデートをして疲れたし、精神的なショックも大きくて頭の中がカッカカッカと熱くなってるから、今夜の春風はクールダウンに持ってこいだ。
「明日はベランダで、今日焙煎したニカラグア飲もうっと。昨日は夕紀さんに『サービス残業してる暇あるなら自分の時間を作りなさい』って軽く叱られちゃったしなぁ……」
手煎り焙煎は週3日。
残りの日のこの時間帯は夕紀さんの店の閉店作業をサービス残業で手伝っていて、こうしてベランダでのんびり過ごす事はほぼ無いから、「趣味に没頭してベランダでひと息つくこの貴重な時間をもっと有意義に過ごしたい」という気持ちが募ってきた。
「彼氏は結局出来なかったけど、春になったしベランダカフェするのも悪くないよね……」
雑貨屋さんで可愛い折りたたみチェアを買って、温かなコーヒーを飲んで、そよそよとした心地よい風を全身に受けるなんて最高だと思う。
「……笠原くんは、そんな夜を過ごす事もあるのかなぁ」
ふと、ベランダ右端にある仕切り板の方へと顔を向けた。
この仕切り板の向こう側に、私が片想いしている男性達の内の1人……笠原亮輔くんが居る。
夜のバイトへ出かける為に彼が外階段を降りて大型バイクのエンジンをかけるのがだいたい21時15分頃だから、もう既に目を覚まして身支度を始めているのかもしれない。
「あっ……部屋の明かりがついた。静かにしてなくちゃ」
予想通り、仕切り板から白色の灯りが漏れて何やら物音みたいなものが微かに聞こえてきたので、私は独り言を勝手に喋る自分の唇にキュッと力を込めた。
(バイト前の身支度を邪魔しちゃ悪いもんね)
私はすぐに部屋の中に入ってようやく窓を閉め、彼がバイクのエンジンを入れる時刻になるまでジッと待つ事にした。
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