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「ちょっと試してみましょうか」
私の返事を待つことすらせず、彼女は席を立ってどこかへ行ってしまった。私なんぞに決定権はないということは最初からわかっていたけれど、ここ最近はあからさまにそんな扱いになってきている。
何をするのかも、何をされるのかもわからないまま、私の意思など関係なくすすんでいく。
彼女は思い立ったらすぐに実行せざるを得ない性格をしている。それがどれだけの結果をもたらすのか、どのような影響を及ぼすのか、彼女は考えない。周囲がどんな言葉をかけても止まることを知らない。だからといって周囲も彼女が止まるほどには強く止めようとはしない。
あのひとりを除いては。
ーーもう、おやめくださいーー
そう言って彼女の前に立ち塞がった彼の姿を私は忘れることはないだろうし、忘れてはならないのだ。ここにいる誰しもが記憶からも殺してしまったとしても、私は一片たりとも溢してはならない。
彼はただ凛として彼女の前に立ち塞がった。
その行動は、あまりにも正しかった。正しかったが、その正しいが通じる相手ではなかった。
ーーそう、わかったわーー
その安堵し、気が緩んだ瞬間に彼女の狂気は迷いなく一閃したのだろう。頭から温かい液体を浴びながら、私は何が起こったのか全く理解が追いつかなかった。
私だけではないだろう、周囲にいた誰しもが。
そして何より首から上を失い噴水のように血を拭き出させている自分のからだを見てしまったであろう彼は、理解も何も追いつくどころの話ではない。
ただ、“その日だけ”は何もなかった。
何もなかったけれど、私は呆然としたままぬるぬると頭からからだへと這うように流れていく液体に、結局いつもよりひどく抉られたような感覚になった。
暫くして、彼女の指示で私は泥だらけの犬を洗うかのようにわしゃわしゃとされた。彼女から指示をされたその数人に、私はされるがままに洗われた。
部屋に戻ると、そこは驚くほど綺麗になっていた。彼がいた痕跡はどこにもなくて、夢だといわれればそうなのだろうと思えるほどであった。
でもそうではないことを、私は理解していた。あのからだを這うような液体の生温さを、少なくとも私は忘れてはならない。
パチパチと、何かがはぜるような音が聞こえた。
火鉢を持った人が顔を伏せて部屋に入ってきた。その後ろからカチカチと火ばさみを手にした彼女が嬉しそうに入ってきた。
火鉢に、火ばさみと、それらをどのように使用するかなんて私には想像つかなかった。
けれども、ここにはもう希望がないことだけは容易に想像できた。
唯一のそれは、もう辛うじて私の記憶の中でただの思い出という概念になってしまったのだから。
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