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京都の清水寺の胎内めぐりに行った時、私は本当の暗闇を初めて知ったと思う。夜の暗さとは全然違った。夜の暗さには目が慣れる。見えなかったものも段々と輪郭を持つ。そのうちに空気の匂いや動きにきづいていく。胎内めぐりの暗闇はどれだけたっても目は慣れない。瞬きを何度しても黒い闇しか見えない。瞬きを繰り返すうちに、目が窒息しそうになる。これだけ視界を塞がれているのに、他の感覚まで頼りにならなくなっていった。
夫はあの時、目は窒息しないと言って笑った。
でも、私の目は今窒息している。
ここがどこだか分からない。
最後の記憶は夫と激しい諍いをしたことだ。
「ねえ、もうあの女には会わないって約束したよね?」
「会ってないって」
「会ってるでしょう! これを見て!」
「おまえ、また探偵なんか使ったのか! 卑怯なんだよ」
「卑怯って!あなたが悪いのにどうして私が卑怯なのよ」
「こそこそ調べさせたりして卑怯だろ!」
「この女とこそこそ会ってたのはあなたでしょう? もういい。信じられない。離婚しましょう。あなたにもこの女にも慰謝料請求するから」
頭に何かが落ちてきた。あれは夫が座っていた椅子だった。夫は私を殺してしまったと思ったのだろう。だとしたら、ここは胎内めぐりなんかじゃない。
涙が止まらない。
ずいぶん前から私の目は窒息していたのだ。夫の姿が見えていなかったのだから。
動き出した感覚から、車のトランクの中だと気づいた。山に行くのだろうか? 海に行くのだろうか?
夫は私が生きていると知ったら、引き返すだろうか? それとももう一度殺すだろうか?
目が窒息している私には分からない。
涙だけが怠惰に行く筋も流れていった。
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