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見れば見るほど、闇は蒼い。
午後7時。
夜の帳が降りた街は、一面の蒼に染まり、私を包み込む。
不慮の事故により眼に障害を患って、今年で5年。
私には黒が見えなくなった。正確に言えば、黒いものは私の眼の中で全て蒼に変換される。
色覚を失うケースはよく聞くが、私のようなパターンは珍しい。
視神経にそれほど大きな損傷があるわけでもなく、精神的な要因もあるのではないかと医者は言っていたが、詳しいことは分らない。
21歳という年齢で視覚のディスアドバンテージを負った私に、周りの誰もが同情した。若いのに可哀そうに。気持ちを強く持たなきゃだめよ。……心配してくれるのは嬉しいが、5年も経つと流石に少しうんざりしてくる。確かにこの事故のせいで私は自動車免許の取得が不可能になり、就職先もやや限られることになってしまったが、この程度で自分の人生に絶望する気は毛頭ない。
それに、この眼になってから、夜は私に新しい色を見せてくるようになったのだ。
環状線のホームを降り、駅前に出る。もっぱら帰宅ラッシュ。まばらな街灯の間を忙しなく行き交うビジネススーツの人影。蒼い夜の下、それらは海の中の景色のようで、歩き出す私もその一部となっていく。
大通りを走るヘッドライト。パチンコ屋の看板。ファミレスの窓から漏れる明かり。それら一つ一つは様々な色を帯びた光となって私の眼に飛び込んでくるのに、その周りにはどこまでも続く深い蒼。事故に遭ってから暫くの間は、慣れない色彩に支配されたこの夜に目が眩む思いがしたが、長く付き合ってしまえば自然と受け入れられる。
黒が見えないというのは、思いのほか不便でストレスだ。でも、何色に見えていようと、私はここにいて、世界はここにある。一度生死の境を彷徨った私にとって、生きているという確かな感覚こそが、何よりの助けだ。
「あ、久美、お疲れー」
裏路地に入ると、学生時代から馴染みのある居酒屋の前で、大学の同級生数人がたむろしている。そのうちの一人が私を見とめ、手を振ってきた。
「お疲れー。ご無沙汰だね、茜。仕事忙しいでしょ。都合ついてよかった」
近寄ると、他のメンバーも口々に声を掛けてくる。久しぶり、とか、一瞬誰か分からなかった、とか、背縮んだ? とか。余計なお世話だ。
「とーぜん。実を言うと帰る間際になってハゲ部長に残業押し付けられそうになったんだけど、突っぱねてやった。計画性と部下への思いやりを身に着けてから出直せってんだ。ついでに髪の毛も」
胸を張る同級生に苦笑する。歯に衣着せぬ物言いも、昔のままだ。
「全員揃ったな。ほんじゃ、入りますかー」
皆と一緒に、ぞろぞろと明るい店内へ。蒼い夜の闇は後ろに置いていく。バイバイ、またあとで。
テーブルに着くと、外では蒼く染まっていた皆の顔が、照明の下でよく見える。相変わらずな子もいれば、雰囲気の見違えた子も。ああ、皆ちゃんと生きてるんだなあ。長い間会っていなくても、それぞれ世界のどこかで、それなりに。
「だっからあ! あたしはちゃんと話し合おうって言ったんだよぉ! それをあのモヤシ男、会うと未練が残るからとかなんとかほざきやがって、そんで一週間後に新しい女作ってんの! どの口が言ってたんだよってマジで!」
お酒が入って三十分。仕事のストレスからか、茜が大学時代の恋愛遍歴を赤裸々に暴露し始める。このメンバーで集まるといつもこうだ。そして茜につられるようにして、他の皆も昔の恥ずかしい日々を思い出してしまう。
「本当、皆若かったよねー。付き合って半年―とか一周年―とか、タイムラインでよく見たわ。谷口とか、確か学部の後輩に花送って告白してたよね?」
「ちょ、やめろよ」
女子の一人に名指しされた谷口が、ウーロンハイ片手に赤面する。
「サザンカだっけ? どこで読んだんだか、花言葉が “永遠の愛” だからって。重いって言われて玉砕してたよねー、あれは凄かったわ」
「丁度そういうのにハマってた時期だったの! そんなんいったらこいつの方がヤバイぜ。サークルの子口説くのに、ギターでオリジナルソング作ってやんの。メロディーはともかく、歌詞がそれはもうなあ……」
「おい!」
谷口に指をさされ、たちまち隣の男子に話題が飛び火する。
「やたら古臭いワード使ってたよな。契りがどうのこうのとか。なんだかんだでOK貰って、しかも彼女がアンサーソング作ってたのは面白かった。彼女の方が上手いっていうのもウケたな。それでも1年持たなかったのは意外だった」
「OK貰えただけマシだろ! あん時は付き合った途端にお前ら、俺を目の敵みたいに……」
「それとこいつ一時期、髪の毛赤く染めてた時期あったじゃんか。あれ何でか知ってる?」
「えー知らない! 何で何で?」
茜が食いつく。既に相当酔っている。
「あれ、彼女が使ってたルージュと同じ色意識してたって……」
「「「うわ~!!!」」」
「やめろー!! 殺してくれー!!」
たちまち、阿鼻叫喚の嵐。若気の至りに満ちた暴露大会で、私を含め皆顔が真っ赤だ。
「怖すぎる。意味怖だ」
「勘弁してくれ……どうかしてたんだあの頃の俺は……」
「信じられないわー! 久美、こういう男どう思う?」
「……ふふっ」
話を振られ、思わず笑いが漏れてしまう。
「ちょっと! 鼻で笑わないでよ! 酷いって!」
「ごめん、違うの。違くって」
必死で笑いを堪え、懐かしい皆の顔を見る。そう、可笑しくて笑っているのではない。皆と話すと思い出す、言葉では表せない温かな気持ち。私がこの眼になってから得た、もう一つの幸福。
「……皆、本当に蒼かったんだなって」
私の眼には、どんな黒歴史も蒼く、愛おしく映るのだ。
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