死にたい夜にただ慰めて

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暗闇から意識が浮上したとき、湿ったような磯の臭いがじっとり染み込んだ車内、その後部座席に私は寝転んでいた。 最高の寝心地とはとても言えない灰色のシート、そこに身体を折り曲げるようにして横たわりそのまま薄目を開けると、眩いばかりのオレンジ色が網膜に飛び込んできた。 私を乗せたワンボックスカーはトンネルの中へ入ったようだ。人口色の光が薄暗い車内へ差し込む。その明るさに思わず頭を上げ、窓越しにオレンジ色の照明をぼんやり眺めた。 トンネル内の照明の色は、ほんの数時間前に見た夕日を思い出させた。人生で見た中で一番美しい夕日だった。あれはこの世から去る直前に自身の記憶に残しておくものとして相応しい風景だったと心底思う。 だが、それはどうも叶わないことになるらしい。 私はどうやら現在進行形で「誘拐」というものに巻き込まれているようだ。その誘拐を実行した人物は当然、ワンボックスカーの運転席にいる。 しかしこの事象は一人で死ぬ勇気も無く、ただただ漠然と「死にたいなあ」「姿を消して親族にも見当がつかないような場所でひっそり死にたいなあ」「できれば誰か見知らぬ人に殺されたりしてアッサリと人生を終えたいなあ」と思いながら日々過ごしていた私の願いがある意味正しく叶った形なのかもしれない。 車を運転している人物に誘拐される数時間前、鮮烈なオレンジ色の光が水平線に触れ合う瞬間をぼんやりと眺めていたとき、当たり前だが私の両足裏はまだ座席のシートではなく砂浜にしっかりと付けていた。 本当に差し迫った用事や目的なんてものも無くフラフラとあちこちへほっつき歩くのが常の日々だったものだから、海と夕日が美しく見えることで有名なスポットまで高い交通費を無駄にかけて電車を乗り継いできたことに理由なんて無かった。 落日の輝きが海中へざぷんと呑み込まれ、濃紺の紗幕が宙に吊り下げられようとしていくその瞬間。 「今日は死ぬのに相応しい夜になる」 そう思わせる美しい光景を前に興奮を抑えきれず、衝動的に買ってしまったよく知らない地元カラー溢れるパッケージの缶ビールを飲み始め、砂浜へそのまま崩れ落ちるように座り込んだ。 ──これがワンボックスカーに強制乗車される前の私であった。 日がしっかり沈んだ後も、文化人ぶって酒を馬鹿みたいに煽りながら濃紺の夜空を眺めて。砂浜で塩っ辛い風に晒されながら、このまま身体が芯まで冷え切って、あわよくば砂の上で野垂れ死ねたら良いなあとぼんやり考えていた。 美しい光景を前にしてからその場で死ぬのが素晴らしいことなのだと心の底から思っていた。ルーベンス描いた絵画の前で息を引き取ることこそ一番理想的かつ有意義な死に方なのだと。 酔いによって焼き切れた思考回路とアルコールという名のガソリンに突き動かされて、あてどもなく歩を刻み始めたのが決定打だったのかもしれない。なにせ私はその日の宿すら決めていなかった。 果たしてそんなことを考えて歩いていたのを見透かされたのか、みすぼらしく身なりもきちんと整えておらず連れの友人も居ない状態でブラついていたのをこれ幸いと思われたか。 観光地とはいえ、日没後の夜の気配が漂い始める時間帯になると辺りに人気は無くなっていた。 そんなタイミングに起きた出来事だった。 街灯の明かりも侘しく灯る田舎道、路上駐車していたワンボックスカーの歩道に向いたドアが徐に開いたのを横目で見た。 そして何者かにグッと腕を掴まれた。 掃除機を前にした綿埃のように勢いよく車内へ吸い込まれたのは正にその一瞬のことだった。ドアの縁か何かに引っかかったからなのか、くたくたに履き潰した小汚いスリッポンが片方だけすっぽ抜けて、無慈悲にも重力に伴い道路へ打ち捨てられた。 どうして、と思うよりも口から悲鳴が飛び出すよりも先に私の身体はモスグリーンのワンボックスカーへ吸い込まれた。 死にたいと心の底から思った夜に限って。 死にたいのに死のうとする勇気もチャンスもない自分に限って。 何故か。 ​──私は、いともあっさりと簡単に誘拐された。 後部座席に寝かせられた私は、アルコールによる酩酊状態も相まってどうやら意識をブラックアウトさせてしまったようだ。 ぐんにゃり力の抜けた私を乗せた車はさも当然の如く飛ばし続け、トンネルを抜けてオレンジの光は眠りにつくように車内から引いていく。 グジュッ、と重い音を立ててくしゃみをしてしまった。身体を冷やしていたからか、歯もカチカチと鳴り始める。 ──寒い。寒い。死ぬかも。トイレ行きたい……。 無意識にそう呟いていたかもしれない。 誘拐犯は後部座席の私の異変にすぐ気付き、前を向いたまま「すぐサービスエリアに着くよ」と言った。 誘拐なんて犯罪行為に手を染めた癖に、妙に律儀だなと思った。ひょっとしたら誘拐した相手に恐怖心を変に抱かせない為なのかもしれない。 気を失っている間に高速へ運ばれている恐怖心よりも、他人をワンボックスカーに無理矢理乗車させたこの運転手は何を考えてこんな行為に及んだかへの好奇心が勝っている気すらして少し薄ら寒い気持ちになった。 サービスエリアに駐車した誘拐犯はドアを開けると後部座席へぬるりとした動きで手を差し込み、当然のように私の肩を掴み、グッと力強く抱き起こした。身体への接触に不思議と嫌悪感は無かった。 肩に手を回した状態でそのままトイレの前まで連れて行かれたかと思うと「今からタバコ吸うから」と言い残し、あっさり私から離れた。 兎にも角にも切羽詰まった尿意に襲われていたので有難くトイレの中へとバタバタ駆け込む。 無事に用を済ませて一息ついたときようやく「この隙に助けを呼ぶと思わないのか?」という疑問が頭を過ぎった。念の為ジャケットとジーンズのポケットをまさぐるがスマホも小銭の一つも存在しなかった。車から降りた時点で手ぶらなので、誘拐される直前に持っていたはずの荷物もしっかり取り上げられていた。 とりあえず諦めの気持ちからトイレを出ると、近くの喫煙スペースに誘拐犯が立っているのが見えた。私のトイレ待ちとは言えタバコを吸いたかったのは事実らしい。 タバコを携帯灰皿に押し込んだその人もすぐに私の姿に気付き、ひらりと軽く手を振るような仕草をした。それはなんだか自分の身内もしくは親しい友人のような仕草で、どうも邪険にし辛いものだった。 歩み寄ってきた誘拐犯氏は私の両手をそっと握って「どうしたい?」と真正面から静かに話しかけてきた。 何の意図か分からずに手を握ったままこちらを見つめてくるその人の顔を見つめ返すと、 「ここなら電話も借りられる。通報できるよ」 「家の人に迎えに来て貰おうか?」 と今日の献立は何が良いか決めようとする家族のような声音で続けた。 どうしてこの人はこんなに優しくしてくれるんだろう。感情の読めない誘拐犯の言動に脳漿がぐちゃぐちゃと掻き回されたような気分だった。 「いや、死にたかったので家にはもう帰りません」 今すぐ大声を出して助けを求めなきゃ、今すぐ通報しなきゃという良識はアルコールによって感情の奥底へと沈められたのだった。 思わず口を突いて出たその言葉を聞いて、誘拐犯は「それは大変だ」と同情を滲ませた声音で返事をした。 その言葉が何故かとても嬉しく、私は力の抜けた笑みを返した。長い間他人に向けて笑顔を作ることも無かったので、不器用で不気味な笑みだったかもしれない。 そうだ、私は「死にたい」と願うようになってからずっと、きっと誰かに共感されて慰められたかったのだ。 だからそれを初めて叶えてくれた素性のわからない他人、しかも犯罪者に微笑むという奇行も容易くできてしまう。 美しい日没を眺めアルコールを煽った末に「死にたい」と願ったそんな夜に限って、この人が突然都合よく現れ、私の為に慰めてくれた。 サービスエリアで買い出しをする為に、誘拐犯は私を後部座席に乗せた。なぜなら私は靴の片方を失くしているし、ヨタヨタと不格好な歩き方になって目立ってしまうということで車内に座って待つことにした。誘拐犯がドアを開ける。今度は自分の意思で車に乗り込んだ。 「今夜は車内泊になるかもだけど」と言い残し買い出しに向かった誘拐犯の背中を窓越しに見送った。 サービスエリアの明るさから逃げるように目を閉じる。 久しぶりに何からも苦しめられずに眠れそうな夜だと思った。
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