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ショッピングモールのイベントホールに猫の着ぐるみが一体いる。
かっと見開かれた大きな目、子供を丸齧りできそうな大きな口、首からはギラギラと輝く小判を下げている。可愛いというより恐ろしい。ゆるキャラというよりは怪人小判猫。でも、これが私のバイト先、ショッピングモール歌ヶ山のマスコットキャラクター「マネマネキャット」、そして私がその中に人だ。
着ぐるみの中は基本的に真っ暗闇だ。視界は口の中にあるメッシュ部分からわずかに見える世界だけ。ふんわりしたボディは柔らかく分厚い。おかげで外の音は聞こえにくい。でも私は着ぐるみの仕事が好きだった。
私、伊地知市子は和歌山出身の二十六歳。役者を目指して東京に出るも夢敗れ、去年実家に帰ってきた。だが役者を諦めきれず今日も着ぐるみを着てイベントホールで小さな子供達に風船を配っている。
「お、ゆうちゃん。猫さんいるぞ」
近くを歩いていた父親と女の子が足を止めた。私はできるだけコミカルに手を振ってアピールする。しかし、小さな女の子はマネマネキャットの顔を見るとギョッとして父親の手を引いて逃げてしまった。
隣で風船を配っていた四十代のパートさんがため息をつく。
「また行っちゃったわね。ほんと、市子ちゃんも大変ね。普通のレジ打ちのはずが着ぐるみ担当になっちゃって」
私は首と手を左右に振って「そんなことないですよ」と否定する。
「ならいいんだけど。それよりあの話聞いたわよ。市子ちゃん、地域限定社員になるんですって? おめでとう!」
「まだ話をいただいただけです。どうするか迷ってます」
「どうして? せっかくの良い話じゃない。この会社、福利厚生もしっかりしているし社員割で買い物だってできるのよ。私も子供がいなければフルタイムの社員になりたいわ」
「私はもう少し自由でいたいって思うんです。融通の効かない社員はちょっと」
「お芝居をしてるから? でも市子ちゃんももう良い歳なんだから。趣味は趣味にしてちゃんと将来を見据えた方がいいわよ?」
「ええ、まあ、そうなんですけど」
イベントホールに一人の男の子がやってきた。手には大きな袋を持っている。近くに保護者がいる気配がない。迷子の可能性もあるので私は念の為、男の子に向かって手を振った。
「あ、モンスターがいる。よし、僕がやっつけてやる!」
男の子は袋の中からおもちゃの箱を出し、中から剣のような物を取り出した。電池で動くらしく、単四電池を入れてスイッチを入れた。鋭い電子音が鳴り、刀身の一部が赤く光る。
「ばーにんぐもーど、おん。あたっく・どらいばー!」
男の子は必殺技らしい名前を叫びながらこちらに向かって駆け出した。
「あら、どうしましょ」
「風船、もっててください」
私は男の子の正面に仁王立ちする。切られた振りをすれば満足するだろうと思ったのだ。男の子は嬉しそうに突っ込んできて「やあっ」と私を切りつけた。胸に一撃を受けた私は両手を上げ「やられたにゃー」と叫ぶ。それに気をよくした男の子は「とどめだ!」と叫びながら剣をマネマネキャットの口に突き刺した。咄嗟に防御しようとしたが間に合わず、私は眉間にいい一撃をくらってしまう。暗闇に白い星が飛び散った。
「伊地知君、災難だったね」
子供にやられた私がバックヤードに戻り休んでいると上司の催事課長がやってきた。
「男の子でしたから結構効きました」
「あの年頃は元気が余っているからね。まあ、今回は大目に見てあげてよ」
「私は気にしていません。怪我もしてませんし。それよりマネマネキャットの方が心配です。首から下げていた小判、ヒビが入って表面の塗装が剥げてしまいました。これ、上からペンキを塗れば直りますか?」
「どうかな。新しく作り直さないとダメじゃないかな。でもなあ」
課長は首を捻った後、壁際に置かれた空っぽの着ぐるみに目を向けた。
「実は、あの猫は引退させるって話が出てるんだ。だから修理はしないかもしれない」
「新しいキャラクターを作るんですか?」
「いや。オリジナルはもうやめにして、今後は地元のゆるキャラを呼ぶことになりそうだ。そもそも自社だけのキャラクター運営に無理があったからね。伊地知君が来る前は着ぐるみ当番は若手社員の罰ゲームだったんだから」
「もしかして廃止ですか?」
「そうだね。マネマネキャットには引退してもらう」
その言葉を聞いた時、私は足元が突然崩れ落ちたように感じた。着ぐるみの仕事は私が演技と繋がれる最後の命綱だった。それが切れてしまったら、私は普通の生活という奈落の底に落ちていくしかない。
「伊地知君?」
絶望に固まった私を課長が心配した。私は頭が少し痛むと嘘をついて早退することにした。帰り際、課長が「地域限定社員の話、考えといて」と声をかけてくれた。本当にありがたい話なのだが、今の私には死刑宣告の念押しに聞こえた。
帰りのバスに揺られながら、私は何も考えられず呆然としていた。目の前が真っ暗になったようで、思考がまとまらない。だがふと顔をあげると遠くで海が夕日を反射してキラキラと輝いていた。これから夜になるというのに、空は暖かく、海もどこか楽しそうに見える。夜だって決して悪い物じゃない。
「いい機会なのかもしれない」
バスのエンジンにかき消されるくらい小さな声で呟いてみる。
着ぐるみに入って猫を演じることは楽しい。でも私はもう夢を諦めた人間だ。今はロスタイムのようなもの。でもいつかは夢から醒めなくてはいけない。
このまま中途半端にバイトと役者モドキの仕事を続けても将来はない。そうやって人生からドロップアウトしていった俳優志望の先輩を大勢知っている。そうなりたくなくて故郷に帰ってきた。今正社員になれば人並みの生活が送れる。
そう、今が夢に区切りをつける時だ。
翌日、私は地域限定社員の話を正式に課長にお願いし、レジ打ちのパートから様々なイベントを企画・運営する催事課に配属替えとなった。元々マネマネキャットも催事課の担当だったので、課長以下のメンバーについてはよく知っている。アルバイトだが正社員の試用期間も兼ねており、三ヶ月後には社員として正式に採用される予定だ。使い手のいなくなったマネマネキャットは修理されないままお蔵入りになった。
催事課の仕事は思っていたよりもずっと楽しいものだった。
ショッピングモールのイベントホールは忙しい。北海道フェア、お笑い芸人のライブ、市役所の年金相談窓口、平日休日問わず様々なイベントが開催されている。今月の目玉は月末に予定されている県警主催の交通安全フェアだ。なんと、現在放送中の変身ヒーロー「アーマードライバー・コールドワン」のヒーローショーがあり、東京からイケメン俳優で有名な主演の神林京四郎が来る。有名人が来るとその分準備や当日の導線整理が大変になる。私は着ぐるみや役者を忘れるため、イベントの準備に没頭した。
交通安全フェアの前日の深夜、私は店内のイベントホールにいた。小さなか公園くらいのスペースがあり、奥には特設ステージが設営され、手前にはパイプ椅子が五十脚ほど並べられていた。
ステージの上ではヒーローショーのスタッフがリハーサルをしていた。ちなみに主演の役者達は当日会場入りをするので音響担当や照明担当のスタッフが代役をしている。スタッフの一人が棒読みで主演、神林京四郎のセリフを読んだ。
「おのれ! 怪人ダークネス! 信号の光を返すんだ。それがなければ、ショッピングモール歌ヶ山のお客さんが交通事故にあってしまう!」
一方、敵役の怪人ダークネスはプロの声だった。着ぐるみやスーツを着ていると声が出しにくいので、ヒーローショーではあらかじめ録音した音声に役者が演技を合わせることが多い。
『ふわっはっはっ! 交通安全なんてバカらしいぜ。信号なんていらねえ。俺は好きな時に道路を渡るんだ。信号の光を返してほしければ俺様を倒してみろ』
「素直に返さないのなら仕方ない。歌ヶ山の皆のために。チェンジ・アーマー・ドライバー!」
勢いよくステージの左右から水蒸気が吹き出し、勇ましい音楽が鳴った。
『アーマードライバー・コールドワン、参上!』
ヒーローの音声が代役から録音に切り替わり神林京四郎の張のある声がホールに響いた。
課長がやってきたので一緒にホールの隅でリハーサルを眺める。
「派手だね。地方の交通安全イベントにしてはかなり気合が入っている」
「明日の来客、期待できそうですね。椅子を増やした方がいいかもしれません」
「じゃあ間隔を詰めて八十にしよう。あと、最前列の中央に関係者の札を置いておいて。市議会議員のお孫さんが来るそうなんだ」
「コネですか」
「コネだよ。でもコネがなければウチみたいな地方がメジャーヒーローを呼べないよ。しかし、東京のプロは違うな。毎回こういうのが来てくれたら」
無邪気に喜ぶ課長の「プロ」の一言が私の胸に突き刺さった。
翌日、交通安全フェアは滞りなく進んだ。客入りは上々で、県警のマスコットや子供向けの警察の制服試着コーナーには長い列ができている。そして大人気の変身ヒーローが来るということで開演の三十分前にはすでに長蛇の列ができていた。
会場時間が早まり、私はイベントホールの誘導員として市議の孫達を自然な感じに中央に案内し、ホールの隅でほっとしていた。そこに青ざめた表情の課長がやってきた。
「伊地知君、大変なことになった。主演の神林さんはさっき到着された。でも他のメンバーやスーツを載せた車が高速道路の渋滞に巻き込まれたらしい」
「……まずいですね。ショーは十四時からです。あと三十分ですけど間に合いますか?」
課長は首を横に振った。
「開演を遅らせますか?」
「それもダメだ。神林さんは十四時四十五分にはここを出発する」
「八方塞がりですね……。変身も敵も無しで神林さんのワンマントークショーにするとか」
「議員のお孫さんは今日のヒーローショーを見るためにピアノのお稽古事をお休みされたそうだ。なんとかヒーローには戦ってもらわないと。そこで伊地知君!」
課長の切羽詰まった目に私は思わず後ろに下がった。
「君にショーに出てもらいたい」
「えっ、私がですか? でもスーツがないって」
「我々にはマネマネキャットがある。暗幕でマントを付ければ悪役に見えなくもないだろ」
「でも、」
「大丈夫。君もリハーサルを見ていたから知っているだろ。悪役のセリフは全て録音だ。君はセリフに合わせて手足を動かせばいい。頼む。議員に嫌われたらこのショッピングモールはお終いだ」
課長は土下座する勢いで私に頭を下げた。
正直、マネマネキャットで怪人の代役をしてもゲストが満足するとは思えなかった。所詮は偽物だし、テレビに出てこない悪役では盛り上がらないだろう。ただ、もう一度着ぐるみで演技ができるならそれは悪くないと思えた。
「これで最後ですよ」
自分に言い聞かせるように言いながら私は悪役の代役を引き受けた。
それから二十分後、私は黒いマントを身につけ赤い角を生やした悪役版マネマネキャットの中に入り、ステージ袖の衝立の中にいた。着ぐるみのメッシュ越しに客席を見ると八十席のパイプ椅子は全て埋まり、立見も大勢いた。
舞台袖で本番を待つ、その緊張感が懐かしかった。
ステージ上で司会の女性がショーの前振りを終えようとしている。
『それではみんなーっ。お姉さんと一緒にもう一度今日のおさらいをしよう。信号が赤の時は、あれあれ! 信号の灯が消えちゃった』
司会の女性が大袈裟に驚き、ステージ上に設置された信号機の灯が消えた。私が待機している下手側のスモークが勢いよく吹き出し君の悪い音楽がホールに響く。私の出番がきたのだ。
私は黒マントを翻しながらスモークに紛れて登場した。
『ふわはははっ。信号の灯はこの怪人ダークネスが頂いた!』
スピーカーから録音された怪人の音声が流れる。私は精一杯の手振りと身振りでセリフに合わせた。会場からは「あれは誰?」とか「猫じゃん」などの声も上がっているが、幸いなことにメインターゲットの小さな子供は大きくて恐ろしげな着ぐるみを怪人と認識してくれたようだ。最前列から「きゃー」とか「わー」とか、いい反応が返ってくる。
それから寸劇は順調に進んだ。怪人ダークネスは日本中の信号から灯を奪い交通事故を起こしてやると計画を語る。『まずはこの歌ヶ山からだ!』のセリフの後、音楽が明るい曲調に変わる。
「待て!」
ステージの上手側からスモークと共に神林京四郎が登場しポーズを決める。子供達はテレビで見たヒーローの登場に興奮し、若い母親達は数メートルの距離にいるイケメン役者に黄色い声を上げた。私もその整った顔立ちに見惚れてしまいそうになる。
神林京四郎はキレのある動作と張りのある声で信号の大切さを語り、怪人ダークネスから灯を取り戻すと高らかに宣言した。リハーサルで聞いた通りだ。
『ふわっはっはっ! 交通安全なんてバカらしいぜ。信号なんていらねえ。俺は好きな時に道路を渡ってやる。信号の光を返してほしければ俺様を倒してみろ』
怪人のセリフが流れる。本当なら、このあとに神林京四郎がヒーローに変身するのだが、スーツとスーツアクターがいないので生身のまま戦うことになる。ここからが本番だ。
「くっ、変身できない。ダークネスめ、不思議な技を使ったな。でも僕は諦めないぞ!」
神林は変身せず、武器を手に取った。といってもおもちゃコーナーで売っているなりきりグッツだ。本来の小道具はスーツと一緒に渋滞に巻き込まれている。
「バーニングモード、オン。アタック・ドライバー!」
神林が赤く光った刀身を正面に構え必殺技名を叫ぶ。私はタコのように腕をくねくねさせながら攻撃を待った。神林が大きな動作で剣を振り下ろす。そのタイミングに合わせて、私は切られたふりをしてその場に倒れた。本当は数分間の殺陣が予定されていたのだが、本番前の急変更なのでこうして一撃で終わる流れになった。これでお客さんが満足してくれればいい。私はステージに倒れながらそう願ったが叶わなかった。
「何をしているの、怪人ダークネス! 立って戦いなさい。もっと神林君の活躍を見せて」
観客席のどこかから女性の声がした。よりにもよって、なぜ怪人側を応援するのか。着ぐるみの中で冷や汗をかいていると、最前列の子供も騒ぎ出した。
「怪人が一発でやられるわけない 気をつけて!!」
「東京のヒーローなんかに負けるな!」
「アーマードライバー、ゆだんしちゃだめだよー」
子供達の善意ある声援に神林は少し動揺しているようだった。声援の中にはマネマネキャット宛のものまであり、収まる気配がない。こうなったら仕方がない。私だって役者の端くれ。アドリブくらいこなせる。
私は立ち上がると両腕を高く掲げてヒーローを威嚇した。
「キシャーッ」
もう録音された音声はないので、とりあえず喉を潰したような奇声を発してまだ戦う意思があることを示す。こちらの意図を汲み取った神林は、すぐにポーズを取り直す。
「しぶとい怪人だ! だが負けられない。信号の灯は必ず取り戻す」
そこから、私と神林の即興の殺陣が始まった。もちろん私はヒーローショーのような派手な動きはできない。だが神林が非常にわかりやすい動作でこちらを誘導してくれた。私の腕を掴み、あたかも殴られたように後ろに飛んだり、大きく上段に剣を構えて私が切られたふりをしやすいようにしてくれたりした。ステージ上での戦いは二分にも満たない時間だった。最後に、神林の放った必殺技が直撃する。
「ギャーっ!」
私が悲鳴をあげると下手側からスモークが吹き出した。私は両手を上げたポーズのまま、煙に巻かれるようにステージから下手の袖に消えた。客席から子供達の歓声が聞こえる。
無事に役割を果たせて安心したが、慣れないアクションを即興でした私の疲労は凄まじく、ステージ袖の床に倒れ込んでしまった。課長が慌ててやってきて着ぐるみの頭を外す。
「伊地知君、すごかったよ! 本当にお疲れ様」
「お役に立てたなら、よかったです」
私は上半身だけを着ぐるみから出し、課長から差し出された水を飲みながら息が整うのを待った。ステージの上では神林京四郎が信号の灯を取り戻し、交通安全の大切さを説いたところだった。
「それじゃあみんな、また会おう!」
拍手と共に神林京四郎が下手に退場する。
袖に入った彼は、マネージャーからタオルを受け取ると汗を拭った。それから床に尻餅をついたままの私を見る。
「後半のアドリブ、すばらしかった。おかげでいいショーになりました」
そう言って神林京四郎が手を差し出してきた。私は汗ばんだ手をマネマネキャットの胴体で拭ってから握り返す。その手は大きく、力強かった。何か言葉をかけなくては、そう思ったのだけれどプロの俳優を前に頭が真っ白になる。そこに神林のマネージャーが声をかけた。
「京四郎君、次の予定が」
「あ、もう時間ですか。みなさん、本当にありがとうございました」
神林狂四郎はその場にいたスタッフにお辞儀すると、颯爽と袖から出て行った。その立ち振る舞いは何もかもが洗練されており、自分がドラマの一部になったような錯覚すら覚えた。あれがプロの役者だ。私は逆立ちしても彼にはなれない。
交通安全フェアは無事に終了した。
ゲストの子供も満足し、課長や店長もほっと胸を撫で下ろす。
私も私の役者人生に区切りをつけられたと思う。最後の舞台が売れっ子イケメン俳優と共演なら悪くない。課長が撮ってくれていたマネマネキャットと神林京四郎が戦うシーンの写真を思い出に、これからは役者への夢はキッパリと諦めることにした。
ヒーローショーから一ヶ月余りが過ぎた。
私は暗闇から抜けたような晴れやかな気持ちで仕事を続けている。まだ胸の奥に痛みはあったが、それも日々小さくなっていた。今日は沖縄物産フェア。ショッピングモールの入り口で客にチラシを配っていると一人の女性が近づいて来た。スーツにサングラスと買い物客らしからぬ服装だ。
「ちょっといいかしら。あなた、マネマネキャットの中の人でしょ? この前のヒーローショー、なかなかよかったわよ」
私は驚いた。社員以外からショーのことを褒められたのは初めてだったし、そもそも社員以外に私がマネマネキャットの中に入っていたことを知っている人がいるとは思わなかった。
女性は一枚の名刺を私に差し出した。
「私、この辺でイベント会社を経営しているの。今日はあなたを新しいローカルヒーローにスカウトしに来たの。三人組の戦隊の紅一点よ。どうかしら?」
突然の申し出に私は目を丸くし、ぽかんとした。その女性は仕事の条件をつらつらと説明した。基本的にはアルバイトで時給は千五百円。週に数日間、練習と本番がある。決して良い条件ではない。
「あの、私ここの社員になるのでアルバイトはできないんです」
「そうなの? なら仕方がないわね。でももし、興味があるなら連絡して」
そう言って女性はヒールを鳴らしながら去っていった。
私は受け取った名刺をマジマジと見つめた。ここに連絡をすれば、役者っぽい仕事を続けられるかもしれない。でもせっかく正社員の道が開けたのにそれを断るのか。そもそもご当地ヒーローやゆるキャラで成功できるのはほんのひと握り。暗闇の中に泥舟で漕ぎ出すようなものだ。
でもやっぱり私は役者が好きだ。叶うなら夢を諦めたくない。
「どうせならとことん落ちてやる」
私はもう一度、夢の泥沼に戻る決意をした。
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