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再 ポスターの肖像
ヴァルの家の中に昔からある、香水の広告のポスター。
それは居間の一番いい場所に、絵画に等しく凝った額に入れられ仰々しく掲げられていた。
若干色は褪せてきたが全体的に青い画面の中心部に、美しい水の精霊か海の女神を思わせる人物が上半身を半ば晒した艶めかしい姿で描かれている。
水面に黒髪をゆらゆらとさせてこちらを青い宝石のような瞳で見つめながら香水瓶を顔の横辺りに掲げるポーズ。
物問いたげな表情と僅かに開いた形良い唇から吐息を漏らして、今にもこちらに何かを語り掛けてきそうな妖艶な美貌。
幼心に胸を擽る疼き。今思えば性愛の芽生えだったのか……。
父と母それぞれが収集癖があるヴァルの自家には彼らが集めた化粧品、香水瓶から映画や演劇のポスター、それに色硝子に繊細な植物の図案のボンボン入れにランプシェード。
父が若い頃からこつこつと買い集めた美麗でありながらどこか生々しい息吹を感じるコレクション。
若い頃苦労して財を築いた父は仕事に明け暮れ結婚とは縁遠かったそうだ。恋や愛など諦めて仕事にまい進してきたが、取引先の百貨店のエレベーターの中で、母子家庭で育ち家族を助けるために懸命に働いていた若く溌溂とした少女と出会って瞬く間に恋に落ちほどなく結婚。
それが何百回も聞かされたヴァルの両親の馴れ初めだ。
そんな父にとって家庭が何よりの安らげる場所だったのだろう。
居間に飾られたそれらを眺めながらちびりと酒を嗜み、音楽を聴くことが年の差のある夫婦の何よりの楽しみだったようだ。
父は酔っぱらうとそれらの品々(どんどん増えていく、季節ごとに置かれるものも変わる)の講釈を幼い息子たちに何度も何度も聞かせたものだ。
真面目で芸術を愛する兄はその父の薫陶を受けたため、今では父と同じく古美術を扱う稼業を手伝いながら大学に通っている。
一方ヴァルはスポーツや武道全般身体を動かすことにしか興味がなく、部屋を駆け回るたびに母親や使用人たちが形相を変えてそれらの貴重な品にぶつからないように喚いたことばかり思い出だす。
だからそれらの美術品の数々がどれほど素晴らしいものかはてんで分からないままだし、大体のことは覚えていないが、一つだけ思いだしたことがある。
どの季節になっても変わることがない唯一のポスター。
遥か南の街で制作され香水の販促用のノベリティとして付けられたそのポスター。描かれている麗しい人物にはモデルがいて、絶世の美貌と類まれな知性で若くしてその地を治めているのだそうだ。
(こんなに綺麗な人がボクと同じように息をして人として暮らしているなんて信じられないな)
幼心にそう思ったが、すっかり忘れていた。父にこの話をされるまでは。
「そうだ、ヴァル。お前昔から、このポスターが大好きだったよなあ。これからお前が通う学校に、その人も昔通っていたのだそうだよ。君はずっと後の後輩にあたるんだ」
子供ながら心惹かれてこのポスターを飽かず眺めていた時期があった。そんな風に父に揶揄われたのだろう。
父から彼のことを話に出されて、ポスターの人物が急に身近になった気がした。
この絵を描かれていた時、彼は何を想い、誰に恋していたのだろうか。
そんな風に思わせる目元ににじみ出る色香がこの絵にはあるのだ。
そのポスターのモデルに瓜二つの美貌は今、ヴァルに組み敷かれて婀娜っぽい吐息を彼の耳元に吹きかけながら背中を悩ましく引き裂いてくる。
「ヴァル、お願いぃ!」
甘い声で強請られ、シャツ越しでもわかるほどに火照る背中に煽られながら、ヴァルは一層強く、おのれの欲望を熱い身体にねじ込んだのだった。
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