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気ままなアドニア一家
ヴィティスの制服は洗濯に出してしまったそうで、ヴァルに無惨にも破られたシャツの代わりの新品と共に明日にもモルス邸に届けられることになっていた。
そのためヴィティスは素肌の上にヴァルのダボダボの長袖シャツを腕をまくり上げながら着て、ズボンは同じくヴァルの短パンを中途半端な丈で履くという非常に微妙な格好で皆の前に姿を現さなければならなかった。
日頃は勝手気ままなアドニア一家が、なぜか今日は父も兄もそして幼馴染までもが顔を合わせていてヴァルはげんなりした。しかし幸運なことに一番詮索好きの母がこの場にいない。母がいたらヴァルもヴィティスも、質問攻めにあって息付く暇も無くなるだろう。
「あの、昨日はこちらに泊めていただき、ありがとうございました」
「体調が良くなったようで良かったよ。ヴァルが友人をここに連れてくることは稀だ。喜ばしい」
父のアドニア氏は朝の陽射しに相応しい穏やかな笑顔でヴィディスを迎え入れてくれたのでほっとしたが内心どこまで二人の関係がみなに透かし見られているのだろうと気が気ではなかった。
(俺の介抱をしたとか、そういう話になっている?)
ヴァルの顔を見ると目線で頷いたのでヴィティスは納得し、共に食卓を囲んでいる先ほど出会った兄とその友達にぺこりと頭を下げて食卓についた。
陽光が溢れる食堂で、皺が深く刻まれた瞳を細めて、父はヴァルとヴィティスを終始柔らかな微笑みで見守っている。
ヴィティスは初対面のものにばかり囲まれて、すこし落ち着かない気分になって無意識に首輪を触ろうする。だが今はもうつけていないと気がついて指先をきゅっと握って膝に置いたら、すかさず長い腕を伸ばしてヴァルが指をなぞるようにしてからヴィティスの手を握ってきた。
(父親や兄貴の前だろ?! なんなんだよ、朝から変だぞお前!)
がちがちに固まり、こういう時どうしたらいいのかわからないと横顔に書いてあるヴィティスの初心な狼狽えようが、ヴァルは可愛くて仕方ないといった顔で見つめてくる。
ヴァルから熱い視線を送られていたヴィティスだが、もう一方でヴァルの父親の視線が自分の首に注がれていることに気がついて、何か勘づかれたのではないかと首輪に対して質問されることを恐れた。
しかしあえてその話題に触れずに彼はただヴィティスに向かって満面の笑みを浮かべたままだ。
(何話していいのか分からない……)
素知らぬ顔で手を握ってくるヴァルが憎たらしくてヴィティスが睨みつけたら、その反応を面白がって顔を寄せキスをしてこようとしたので流石にもう片方の掌でぐいっと顔を押し返した。
その直後、今度は父親の方がやや芝居がかった仕草で胸元に片手を当て椅子を立ち上がり感嘆の声をあげた。
「おお! お前たち。それよりも気が付かないのかい?」
「やっぱり! 父さんそう思いましたよね?」
(なんなんだ……、この家。無茶苦茶自由過ぎるな)
驚くヴィティスを尻目に、兄と父がのんびりした口調でわいわい喜んでいる。美術品の目利きや買い付けで意気投合した時に見られる仕草だったが、大体ヴァルは蚊帳の外だ。何のことやらと首をかしげて自分もヴィティスの隣に腰をかけた。
「君は、我が家に長らく飾られていた麗しき海の女神の肖像に瓜二つだ」
「??」
顔を輝かせたままの父子に戸惑い、わからないといった顔でヴィティスがヴァルに顔を向けてきた。朝日に艶々とした素肌を照らされ、黒髪を垂らし、菫に似た色の大きな瞳を見張ったヴィティスは美人に言い寄られ慣れているヴァルをもってしても息をのむほど眩く麗しい。
ヴァルの大きなシャツで胸元の際近くまで素肌が見えた艶めかしいその姿を見た時、ヴァルの脳裏にぱちぱちぱちっと火花が走っていくように鮮やかに記憶が蘇った。
「あれか……。居間のポスター」
「ポスター?」
息子に代わって聞いてくれと言わんばかりに急に饒舌になった父が話をつづけた。
「紫の小瓶という香水についてきた海の女神に扮した人物が描かれたそれはそれは美しいポスターだよ。私たち夫婦はその絵を気に入って長らく、割と数年前まで居間に飾っていたんだ。色が褪せてきてしまったので泣く泣く今は閉まってあるよ。ポスターに描かれていたのは、この世の楽園と言われている南部ハレヘの領主でソフィアリ・モルスという人物だ。聞くところによれば、君はモルス家所縁の人だそうだね?」
どうしてそれを……とヴィティスは訝しく思ったが、同級生であるヴァルがそのことを知っていてもおかしなことではないし特に隠しているような情報でもない。
「ソフィアリ・モルスは俺の叔父で、父の双子の兄です」
「やはりねえ。君その人にそっくりだろう? モデルになった頃の彼の面影が君にそのまま残っている。その小麦色の肌ともしかしたら少し君の方が華奢かもしれないという違いはあるが、瓜二つに見えるね。いやあ、美しい。この世にこんなにも美しき顔が三つも存在するとは女神に愛されている造詣なのだろうね」
(そうか……。だからどこかで見覚えがあったのか)
子供の頃、恋焦がれたことの或るポスターの存在を、ヴァルは今の今まですっかり忘れていた。
肖像の少年の真っすぐにこちらを見据えてくる、物問いたげな眼差しに心惹かれ、心の中で対話していた。子どもの頃から活発なヴァルが唯一、そのポスターを見つめている時は頭を空っぽになり、青い水面に彼と共に揺蕩う美しい情景を夢想をした。
学校で飛び交う様々な噂や先入観を取り払ってみたら、確かにヴィティスは海の女神の扮装をしたこの人物に瓜二つだった。
まじまじともう一度見たくて黒髪に彩られた横顔を目をやると、はっとした表情をしてヴァルから手を奪い返し額に手を当てたヴィティスが、見る見るうちに顔色を失っていくところだった。
「どうしよう……。思い出した。俺、昨日からおばあさまに無断で外泊してることになる。きっと心配して……。大騒ぎになっているかもしれない。はやく連絡しないと」
その慌てぶりにヴィティスはこれまで非常に品行方正に生きてきたのだとヴァルはすぐに悟り、それではヴィティスに首輪を贈った相手は秘密の恋の相手かもしくは、家族も公認で正式に彼に交際を申し込んでいる相手のどちらかなのだと考えた。どちらにしてもヴァルにとっては厄介な相手に間違いなかった。
「ヴィティス。お前のことは俺から父さんに昨晩話しておいた。多分もうじき迎えが来ると思う。俺にとっては身近な人で……。お前の父さんも知らない人じゃない」
ここに来てからなにか幻術でもかけられているかのように不思議なことばかり耳に入ってヴィティスは混乱した。父はかつて中央の病院勤務をしていたのでその頃の知り合いがいてもおかしくはないと思うが、それにしてもそれがヴァルの父親の知り合いとは世間は狭すぎる。
「父さんが知っている人?」
するとタイミングよく呼び鈴が鳴って、その人物が現れた。少し白い房の混じった金髪に、ヴァルと面差しが似た堂々と体格の良いその姿。
彼の後ろからまるで雪の精霊のように真っ白で小さな身体が飛び出してきて真っすぐにヴァルに向かって跳び付いていった。
「ヴァル兄さん! 久しぶり~ 会いたかったよ~」
座るヴァルの膝の上に正面から乗り上げると、小さな桃色の唇がぷちゅっと遠慮なくヴァルのごくごく唇に近い頬にくっつき、小さな手でヴァルの頭を大胆に抱えながらすりすりと頬ずりしてきた。
あまりのことにあっけにとられたヴィティスが胸の中をもやっとさせながらやや怖い顔になると、その少年は小さなえくぼが可愛い、蠱惑的ともいえる笑顔を見せて呟いた。
「ヴァル兄さん、この人だあれ? まさか恋人じゃないよね? 駄目なんだからね。兄さんは僕がいい番が見つけられなかったときの、永遠の二番手候補でいなきゃなんだから?」
「え?」
思わず声を上げてしまったヴィティスは口元をすぐに抑えて表情を戻そうとするが、何故かうまくいかない。
「ルビー。離れろ。もう小さな子供じゃないんだぞ?」
面倒くさげな口調だが声色はあくまで優しく、ヴァルはそのどこもかしこも真っ白で愛らしい少年の両頬を手慣れた様子でむぎゅっと優しくつねって、眦をて下げ笑みを浮かべている。
ヴィティスは学校でのヴァルの厳つい様子を知っていたから、彼がそんな顔を向けるのは自分だけだと思い込んでいた。自分の中にどんどんと雨雲みたいな黒いもやもやが胸に溜まるという初めての気分を味わい、ヴィティスは憂いに美貌を曇らせるのもまた色気漂う。
そんなヴィティスにすっかり心を奪われていたシリルは、ぽってりとした赤い唇が尖ったようになったヴィティスをみて、やはりこの子はヴァルのことが好きなのだなあと察して素早く失恋してしょぼっと肩を落とす。惚れっぽい幼馴染のこんな姿は見慣れているブラッドは、全員を見渡してやれやれと思いながらシリルの肩をぎゅっと抱いた。
ルビーと呼ばれたまるで花の様に儚げでつむじ風のようにすばしっこい少年の首には、首あたりは柔らかそうな革製のチョーカーが取り付けられていて、彼がオメガであることを物語っていた。
「こら、叔父さんに挨拶もなしに、お前は」
ルビーは父親が窘めるがどこ吹く風でヴァルの膝に乗り上げんばかりにくっついている。そんな息子が可愛くて構いたくて仕方ないのか、大きな手で髪をぐしゃぐしゃっと撫ぜに行っては息子から手厳しくぱしっと手を叩かれている父が哀れだ。
「あ、叔父さん、シリル兄さん、ブラッド兄さん、あと、名前の知らない貴方もこんにちは!」
「おいルビー。ヴァルは候補で、どうして俺が番候補にはなれないのか? どう考えても俺のがヴァルよりいい男だろう?」
ブラッドが冗談めかしてウィンクすると、ぺろっと小さな舌を出してルビーもウィンクを返していった。
「やだよ~ ブラッド兄さんはハンサムでお金持ちだけど、僕、ラズラエル百貨店夫人なんて柄じゃないもん。僕はね、いつでも楽しく自由に気楽に生きたいんだよね。堅苦しいの、無理無理!」
「全く……、あの働き者で倹しいリオンの子の発言とは思えんな……。誰に似たんだか」
「父さんが僕を甘やかすからです~。でも僕すごく可愛いし、仕方ないよね? ねえ? ヴァル兄さん?」
「ルビー。お前ほんと、良い性格してるよな」
そもそも線の細い体格の者が多いこの国においてもルビーの華奢さは群を抜いており、しかしひょろっとしているというより少年の骨格と少女のような甘いまろやかさを併せ持つ稀有な愛らしい肢体を元気いっぱいに動かしている。その様は雪の花のような真っ白な容姿は可憐極まりない。女性と比べても見劣りせず男性受けが断トツの良い。Ω判定されてからは言い寄る男が絶えなくなって、父親の悩みの種になっている。
瞳の中の金色の環を揺ら揺らと炎の舌のように揺らしたヴィティスが、誰その子?というおっかない顔でヴィティスがじぃっとヴァルを見つめてきたので、これは少し脈がありそうだとヴァルは内心喜びながら弁明した。
「こいつは従兄弟のルビー。俺らの隣の中等年学校に通ってる。あっちは母方の叔父のジル・アドニア」
金髪のハンサムな中年男性は年の頃ならヴィティスの父と同じぐらいだろうか。実は両目の視力が合わずに人をじっと見つめる癖があるヴィティスとそのヴァルに似た金髪紳士の目が合った。
「驚いたな……。セラの息子か? セラにもソフィアリにもそっくりよく似ている。いや、こうしていると雰囲気は大分ヴィオに似ているな? 君があの小さかったヴィティ?」
それはとても親し気に、そして懐かしいという思慕のこもった親し気な問いかけだった。家族しか呼ばぬ愛称で呼ばれ、ヴィティスははてと小首を傾げた。
「あの……。俺はどこかで貴方にお会いしてますか?」
「君が小さかったころは結構頻繁に会っていたよ。抱っこしたことも、ご飯を食べさせてあげたこともあるぞ? 小さなころからとても可愛かったが、今はもう存在自体が稀有なほどの美人に育った。月日の流れの速さには驚くばかりだ」
「やだなあ。父さんったらオジサンくさい」
「このダンディーな父を捕まえて! この! こうしてくれる!」
「やだ! 父さん、やめて~」
ジルが華奢な息子をヴァルから取り上げて、未だ逞しい腕で担ぎ上げると、ルビーはまんざらでもないようで、女神の御使いのように造作が愛らしい笑顔でけたけたと笑う。
本当はルビーにとって父親のジルは飛び切りかっこいい頼りがいのある男性だと思っているけど思春期なのでそんなこと絶対に口が裂けても言わないのだ。その代わり嬉しそうに父親の首にしがみ付いて、輝く笑顔で愛情を表現している。その素直さと父親との距離感の近さが、ヴィティスには少し羨ましく映った。
食堂に来てまでふざけている父子に、甥っ子たちはややあきれ顔で見上げてきたので、流石にジルもこのところ一緒に出掛けてやれなかった息子との久々の外出に騒ぎ過ぎたと思ったのか、ごほんっと咳払いをしてから話をつづけた。
「ヴィティ。俺は君のお父さんと、若い頃からの知己だよ。妻のリオンもヴィオと今でも手紙のやり取りをするほど仲良しだ? ドリの里をまた訪ねると約束したのに、まだ当分仕事が忙しくていけそうにない。セラとヴィオは元気かい?」
するとヴィティスは口ごもって動揺から視線をやや揺らめかせてから答えた。
「留学前に一度里に帰って、帰国して三か月ですが……。半年以上会いに行っていません」
「そうなのか。学校も忙しいと思うが、行っていけない距離じゃないんだから、会いに行ってあげるといいね。きっと寂しがっている。俺ならルビーとそんなに会えないのは考えられないな?」
「やだなあ。父さんはそろそろ子離れしてよ。僕が友達連れてくるたびに親の職業から本人の元恋人までいちいち調べ上げようとして……。職権乱用っていうんだよ、それ」
「いいか、ルビー。アルファは友達じゃない。あいつらはみんな飢えた獣みたいなものだ。わかってるのか?? 人と獣は友達にはなれないんだぞ?!」
ジルは荒くなる語調とは裏腹に、愛しい番にそっくりに育ってきたどこからみても可愛らしい息子の顔をデレデレと甘い顔で眺めた。
首輪のことを見とがめられるのが怖くて親に会いに行けていないとはとても言えなくてヴィティスはまた口を噤んで曖昧に微笑んだ。
「ところで、私は若い頃からジブリール様には良くしていただいていてね? かわいい孫が行方知れずになったと昨晩直接ご連絡をいただいていた次第だ」
「え……?」
「父さんは警察署の署長なんだよ?」
ヴァルの隣に腰かけなおしたルビーが自慢気にそういって運ばれてきた林檎ジュースをこくりこくりとマイペースな様子で飲んでいる。
「幸い義兄さんが君がヴァルと一緒にいると証言してくれたから、私が年頃の少年にはありがちな小さな反抗でしょうと言っておいたよ。まあ実際そんなところなんだろう? セラだってテグニ国にいた頃は色々悪さをして遊んで歩いていた時もあったって言っていたし、私だって若い時分には人に言えないような悪戯をして歩いたこともある。若者はそうやって人生を学んでいくものだ」
「何それ、楽しそう! 教えてよ。父さん!」
「ルビーは絶対に夜に出歩いちゃだめだぞ?? 可愛いお前に何かあったら、中央中の警官が深夜早朝残業と休暇返上で捜索に当たって大騒ぎになるんだからな?」
親子のやり取りが矛盾極まりなくてヴィティスも思わずくすりと笑ってしまった。
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