月光の君

1/1
346人が本棚に入れています
本棚に追加
/47ページ

月光の君

 今日もいつもどおりの時刻に放課後を告げる時計塔の鐘が鳴り響き、ヴァルはその建物全体を震わせる青銅の響きに転寝から小さなくしゃみをして目を覚ました。 「……っけね。寝過ごしたか」  秋の陽が落ちるのは早い。  昼食を時計塔の秘密の小部屋でとり、少し横になってから午後の授業に参加しようと思っていたのに、そのまま今の今まで眠ってしまっていたらしい。  開校当初からこの場所に立つ時計塔はその時代時代でちょっとばかりやんちゃだったり素行が怪しい数名の生徒が、朝昼晩と鐘つきをする管理人に貢物をして鍵を貸してもらっている。そんな一部の生徒のみぞ知る伝統がある。  ヴァルが何代目の鍵の持ち主かは知らないが、かつては結構な本数が出回っていたという鍵の束は十数年前に一度取り換えられて以来三本まで減ったらしい。  そのうち一本はいつの間にか紛失、残りはこの春から同じ敷地内の大学に進学したヴァルの兄とその親友の青年から、そのどちらもがヴァルの手にもたらされている。  かつては気の合う仲間同士で明星生と言われる特待生たちのサロンとはまた違った意味で、ここを堪り場にしていく文化があったのだろう。部屋の中には代々の先輩たちが残した落書きや過去のテストのデータの蓄積した答案用紙、大きな水晶のクラスターに、やや淫猥な内容の粗末な紙質の雑誌。  そして塔の上から物見やぐらよろしく下を覗ける望遠鏡などがある。  しかしヴァルは誰にも鍵を渡さずに、この場所を悠々と一人で独占して使っている。  友人がいないわけではないが、アルファ性を持つ上、どこにいても一目でわかる隣の大国由来の血の混ざった大きな身体は、国民性として華奢なものが多いこの国の中では威圧的に感じるものも多いようだ。  同級生から下級生まで、信奉者を名乗る者たちには盲目的に頼りにされたり崇められたり、逆に競技に参加するために出席数等便宜を図ってもらっていると出来の良い者たちからも妬まれたりと同年代との距離の取り方が煩わしく感じていた。  そのため校内で一人きりで静かな時を過ごせる場所として、ヴァルはこの埃っぽく古めかしい時計塔を愛しているのだ。 (日没前にでて道場に顔出すかな……)  バネがそこここ飛び出した古めかしい長椅子には兄が家から持ち出していた(と母の好みそうな派手な色柄で分かる)クッションを敷き詰めやや窮屈そうに寝っ転がっていたヴァルは、その姿勢から腹筋を使って一気に飛び跳ねたちあがった。  石作りの時計塔はヴァルが暴れたぐらいではびくともしないが、代わりにソファーが今にもばらばらになりそうにみしみし悲鳴を上げてヴァルを批難するかのようだ。  最近の学生は栄養事情が良くなり昔よりさらに体格が良くなったと言われているらしいが、ヴァルは同年代で自分と同じぐらい立派な体格のものを見たことがない。  警察官をしている叔父もかなりの長身だが、まだ高等教育学校に通う身の上でありながらヴァルはすでに叔父に迫る体格を誇っている。  近年この国でも人気がでてきた、隣国テグニ発祥の格闘技リコの道場に叔父の影響もあって中等年学校に入る前から通い、鍛え上げられた肉体は胸板一つとっても厚みが半端ない。  色男で鳴らした叔父に年々面差しが似てきていると言われるやや垂れた甘い目元も相まって、特有の野性的な雄っぽい色気があると、父の経営する店の年上の女性からも度々熱を上げられ、色目を使われるほどだ。  その上リコでは国を代表する選手としてその名を轟かせているが、最近はこの国の同年代でヴァルに敵うものがおらず、些か興味が薄れがちになっていた。  本来だったらこの時間は放課後の鐘を待ちきれずにすぐに道場までの数駅を走って移動しているところだった。  夏の遠征後このまま本場に留学してまでリコを続けるか、それとも以前から誘われている最近人気の出てきた球技に大学入学から参戦するか、それともなくば競技から遠のいて勉学に励むか迷いが出ていた。 (大会も終わって……。代り映えしない。退屈だな) 『そんなに恵まれているのに退屈なのか? 才能があるものだけが許されたような悩みだな』  幼馴染のブラッドの前では度々口にしていた台詞。ブラッドからは揶揄されても腹が立たずまた嫌味にも聞こえないのは、彼こそ才覚に恵まれた同じアルファ同士であるからだろう。  優美で穏やかなベータ性をもつヴァルの兄、シリルと同じく、ラズラエル百貨店の御曹司で見るからに品が良く頭の切れるブラッドは毛色の違うヴァルのことも何故か馬が合うのか弟分として可愛がってくれた。  ヴァルの鬱屈とした気持ちにもいち早く気が付いて声をかけてくれたのもまた彼だった。 『俺たちアルファは、いつかまだ見ぬ半身に出会うまでは、胸の中にいつでもどこか空虚な部分を抱えたまま生きているようなもんだ』 『なにそれ、誰のうけうり?』 『俺の言葉』 『半身……。番か』 『そう。番。魂を分けた半身』  ヴァルたちが通うのはオメガだけのクラスが撤廃された学校の第一号になった中央の高等教育学校だ。  かつては大学の予科として誕生したこの学校は貴族のご子息御令嬢が通う由緒正しき学校で、はじめてオメガの学生が通うことのできるクラスが作られた学校でもある。  かつてオメガの少女たちは家柄の良いものは親の決めた許嫁と発情期が来てすぐに番になり、そのまま退学するものも多かった。  近年は医学の進歩で抑制剤が発達したため番を得る年齢もぐっと遅くなり、自由に恋愛を楽しむものも出てきた。  だがそれは不文律のように校内で『アルファの学生の恋人になれるのはオメガの学生』という雰囲気を醸し出す結果となり、見えない鎖となってヴァルに不愉快に絡みついているのだ。  もちろんオメガからちやほやされるのを好むアルファもいるだろう。特に明星生という、宵の空に光り輝くが如く優秀な生徒に与えられる特権的な称号を持つ者の中にはアルファが少なくない。  彼らは専用サロンなど、一部学校施設の優先的な使用ができるため、家柄も容姿も自分に自信のあるオメガは彼らの恋人になり人より少しでも優位に立とうと、下心を隠そうともせずに媚を売る。  アルファもオメガも互いに互いを値踏みしながら、ベータの生徒とは違う場所に立っているのだとでもいうように、特権意識を丸出しにしている。  ヴァルの目にはそれが醜悪とまではいかないがあまり好ましい姿には映らないのだ。 『気になる子はいないのかい? お前の退屈が吹き飛ぶぐらいのとっておきの相手は?』 『……いないよ。ベータの女子からはデカい、こわいって遠巻きにされるし、オメガの女子はアルファと宵の明星生以外はからは、顔と身体だけで遊び相手を選ぶらしいぜ? ぞっとしないだろ。ブラッドこそそういう相手はいないのかよ?』  宵の明星生と言われる、家柄も品格も備わった(と一応言われている)生徒会組織のリーダーだったブラッドも、だが言い寄る相手はオメガもベータも相手にしないまま大学に進学していった。  むしろ兄のシリルの方が自由に青春を謳歌し、かなりとっかえひっかえ家に女生徒を連れてきていたからブラッド程出来が良く美しい若者が気軽に恋人も作れないなどとはバース性がむしろ不利に働いているとしか思えなかった。 『ま、そんな相手がいたら、俺ならお前には絶対に会わせない。誰にも見せずに隠しておきたいかな』  本当か嘘か彼にしては仄暗く笑ったブラッドには、すでにそんな風に思える相手が存在しているかのようだった。 (夢中になれるような相手が見つかったら、退屈も減るのか? そういうのを恋愛に現を抜かすっていうんじゃないのか? どいつもこいつも浮かれて騒いで……。何が楽しいだろうな?)  気になる子という単語に一瞬頭に浮かんだ人物は今教室内を席巻している嵐の中心にいる。どうしても思い浮かべてしまうのは、あまりにも鮮やかな彼の存在感はとても無視できるようなものではないからだろう。  大分部屋の中が薄暗くなってきたから、空模様を確認しようと窓辺に立ってヴァルはふと何気なく下を見た。  時計塔は周りにぐるりと一周ベンチのある公園風になっているから昼間はここで昼食を取ったり、大学部の学生が読書をしたりとそれなりに人気がある。  午後から夕方からにかけて薄暗くなると、周りの木々も目隠しになり鬱蒼としているから女生徒はまず近寄らない。  そこに人影がよぎった気がした。秋の日の夕暮れが近く段々と薄暗く見えづらくなってきたが、視力の良いヴァルが目を凝らすと先導してきた人影は長い髪を翻して走る女生徒に見えた。  しかしなんだか様子がおかしい。後ろから数名の男子生徒が寄ってたかってその女子生徒に掴みがかからんばかりの勢いで追い回しているように映ったのだ。 「なんだあれ? 校内でなにやってんだあいつら?」  艶めく黒髪をなびかせて白い服を着たほっそりとした人影が逃げおおせようと、どんどんと時計塔すぐ下まで駆け寄ってきている。  何を言っているかはわからないが声もしてきた。  揉めているのは明らかで、ヴァルはもっとよく見ようと棚にあった古い双眼鏡を片手に彼らの姿を覗きこんだ。  眼鏡の向こうに映るのは、まごうことなき稀有な美貌。 (あれは……、ヴィティス・モルス?)  先ほど僅かでも思い浮かべていた相手が突然現れるというのは、何か運命的なものを感じずにはいられなくなるものだ。  夏の終わりにふらりと留学先から戻ってきたばかりの美しい少年は、若干引いた目線で世の中を眺めるヴァルをもってしても、流石にその存在を意識せざるを得ぬほどの強烈な個性を放っていた。  夜の闇よりなお昏い艶やかな黒髪。フェル族に由来があるのか滑らかな薄い褐色の肌に、青とも紫とつかぬ夕暮れ時の空の色の印象的で大きな瞳。  華やかだがどこか浮世離れして涼し気に見える美貌の中で、赤い唇だけはぷっくりと艶めかしく色づいている。  口元のほくろがつい目に行くほど色っぽくて、微笑まれたらこちらが心を奪われて呆けるほどに艶やかで。  彼が初めて特進クラスの教室に入ってきた時、ヴァルはたまたまリコの国内大会で不在だったが、皆が彼に一瞬で魅了され、色めき立ったことは教室内の空気で伝わるほどだったそうだ。  圧倒的な、とはこういうことを言うのだろうという艶美さ。  彼は少年たちを一目で魅了し、少女たちを一瞬で敵に回した。  ヴァルは新学期に入ってから今日のように授業をさぼること数回だったため、宵の明星生にちやほやと囲まれて歩くその白百合の如き美貌とは、教室と廊下で数度すれ違った程度のかかわりしかない。  その際目も合わなかったが、まあ、単純に存在そのものが綺麗だなあとは思った。あまりにも珍しい容姿をしているから誰でも自然と目が行くだろうと思った程度だ。  首尾よく宵の明星生たちに気に入られた、運のいいオメガなのだろうとかそんな風に考えた。彼がオメガであろうと凝視せずとも一目でわかったのは首に嵌まっていた黄金に輝く金属製のチョーカーが付けられていたからだ。  美術品的な価値のある逸品であることは見て取れたのは、実家が古美術も扱うため、ヴァルも知らずしらずに審美眼が鍛えたれてきたからだろう。 (成人してない我が子に送る医療用のチョーカーとはものの質がまるで違う)  チョーカーは求愛されているオメガの象徴のようなものだ。つまりもしかしたらすでに誰かの「お手付き」であるかもしれぬ。  まだ幼さも残るほっそりとした首筋に似つかわしくないその首飾りは彼の圧倒的な美貌と相まって神秘的でありつつどこか淫靡な輝きを放っていた。  最初はその美貌に目を付けた宵の明星生にうまい具合に取り入れたオメガの一人。  彼のことをその程度にしか考えていなかったが、聞くともなく彼の噂は毎日耳に入ってくるようになった。実は彼が非常に成績が優秀であること。それ故に教員と学生双方の推薦によって宵の明星生へ招致がなされたが、学校の古くからのルール上、飛び級で一学年年下であるためそれは叶はなかったこと。  そのことからついたあだ名が明星をも凌ぐ輝きを持つ『月光の君』であること。  明星生にはなれない、それならばと益々彼を取り巻く者たちの執着はますます強まるばかりで、彼を傍に置きたい幾人もの宵の明星生が勢い余って彼に愛の告白と番の申し込みを早々にしていったらしい。  ついには大学部までその名が轟くほどだったらしく、堂々と校舎を越えて敷地を入ってきて、秋の芸術祭で夜の女神の絵のモデルになって欲しいと大学部でも名の知れた美術学科の学生に懇願されて、ついでに大勢人々の目の前で求愛されていたらしい。  それに対する彼の答えは『この首飾りを外すことができたら』という謎めいたものだったらしい。この校門前での騒ぎは流石にヴァルも昨日目にしたところだ。  それはそのチョーカーを彼に与えた男への挑戦を仄めかす暗喩であるのか、はたまたただ求愛してくる男たちにわざとそんな風に挑発し、無理難題をいってをかわすためなのか。 (小賢しいやつ。そうやって人の優位に立ちたい? 弄んで面白がりたい?)  妖艶にすら見える花の様な美貌をちらつかせ、男たちを翻弄しようとする、物語に登場してくる悪女の様な……。  事実クラスの雰囲気がどんどん悪くなってきたと訴える少女たちも現れ、そんな教室の雰囲気に耐え兼ね、昼から時計塔に隠遁したようなものだ。  ヴァルはとりあえず関わり合いたくなくて気にも留めないようにしていた。  しかし、件の彼が塔を背に追い詰められたかのように少年たちを振り返り、彼らに取り囲まれて腕を押さえつけられる剣呑な様子にはっとする。  生来叔父の影響を多分に受けた正義感を持ち合わせたヴァルは、思わず体が動いて弾かれるようにして部屋を飛び出し、階段を回る様に駆け下りていった。
/47ページ

最初のコメントを投稿しよう!