熱い身体

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熱い身体

 広い構内をくまなく追いすがられたうえ、ついに時計塔の下などという薄暗い場所までやってきてしまった。  華奢な身体を白い上下に身を包んだヴィティスのほっそりとした腕を掴み上げてくる少年はすでに青年と言ってよいほどの体格だ。  これでも転校当初からとても親切にしてくれたし、端正な容貌で頭も悪くなく礼儀正しい彼との会話は嫌いではなかった。  そう、関係性が拗れるまでは……。 「腕が痛い。離してくれ。エロース」 「離したらまた、君は逃げてしまうだろ? ヴィティス、お願いだ、もう一度チャンスをくれよ」  ヴィティスは大きく嘆息し、掴まれた腕を引こうにもびくともしない。2人といないような青と紫どちらも混ざった大きな瞳で睨みつけるが、相手は寧ろうっとりとして覗き混んでくるから始末が悪い。 (くそ、面倒なことになったな……)  思えは今朝からヴィティスはついていなかった。  祖母のジブリールと朝食をとっている最中、今晩の来客者が誰かを知らされて憂鬱になったし、夜更かしして読み切ったテグニ国の工芸品に関する本は期待していた内容は書いておらずただただ重たいそれを抱えて今日中に返しに行かねばならないのも億劫だった。  図書館は全学部共通で利用できるが大学部の校舎にあるため、先日ヴィティスに求愛してきた大学部の男やその取り巻きの目に触れないようにいかねばならなかったからだ。  何よりまた身体が成長して、無意識に手をやってしまうのが癖になった、首にとりつけられた金属製のチョーカーが息苦しくて堪らない。  そして今……。何とか図書館から戻ってきた帰りに、こうして一つ年上の貴族出身者ばかりの同級生たちに囲まれているわけだ。 (あー。鬱陶しいな)  放課後、ヴィティスを溺愛している祖母がよこしてくる迎えの車を何とか理由をつけて巻こうと思っていたのだ。  どうしても今日モルス邸を訪れる来客と鉢合わせしたくなかった。ジブリールは彼を気に入っているから、家に戻れば必ず顔を合わさざるを得なくなるだろう。  しかし実家が中央にはないヴィティスに他に隠れる場所は乏しく、弟のシトラスや従兄弟である双子のアルマとジェレミが親元を離れてこの春から住んでいる寮にかくまってもらうという手にも思い当たった。  しかし大部分が血気盛んな時期のベータが住まい、オメガに弱い年若いアルファも僅かながらいる寮にオメガであるヴィティスが出入りすることを快く思わないものもいるのだ。  それに弟のシトラスと双子たちを夏に留学先からこちらに戻ってきてからなんとなく避けて歩いている、というか意図的に避けている。  ヴィティスより二つ年下、まだ半人前の学生の癖に恵まれた体格と一つ年上の従兄弟たちと共に進学できる学力を有する生意気な弟は、アルファとしての本能を丸出しにして、兄であるヴィティスを護ろうときっとしつこくまとわりついてくるだろう。  そして誤魔化し続けてきた留学後の兄の首に嵌まったチョーカーの件もきっと詮索してくる。それにももうんざりだった。  かくなる上はとヴィティスを慕う可愛い年下の従兄弟のスリスと叔父のバルクやミカの暮らす家にでも逃げ込んで来客をやり過ごそうと中等年学校の入り口にスリスを待ち伏せしに向かおうと思っていたのに、とんだ足止めを食らってしまった。  それどころか宵の明星生と呼ばれるついこの間まではそれなりに友好的にかかわっていた(とヴィティスは思っていた)腕を取られて高等部の彼ら専用のサロンに無理やり連れて行かれそうになっている。  それが今のヴィティスの置かれた状態だ。 「俺、急いでいるんだよ。図書館に寄ったからもう時間がギリギリで、行かないといけない場所があるんだ」 「ヴィティス、お願いだ。後でそこに送っていくから、とにかく今は一緒にサロンにいってくれ。そこに工具を置いてあるからもう一回そのチョーカーを外すのを俺にためさせてくれ」  ヴィティスは首筋についた今朝の不愉快の原因のもう一つである傷の辺りを摩って眉を顰めた。 「もう一回って言われても……。君、これ昨日外せなかっただろ? 無理やり外そうとすると首が閉まって取り返しがつかなくなるし、工具なんていれられる隙間がもうないんだから。大人しく諦めて欲しい。いったろ? チャンスは一度きりしか上げられないって」 「嫌だ。諦めたら君は、そのチョーカーを贈った男のものになるのだろ? 愛おしい君が誰かのものになる……。そんなの耐えられない。工具が嫌なら父の知り合いに腕の良い職人がいるんだ。これから俺と一緒に父にお願いしに行かないか? 君のことを紹介もしたいし」  日頃は勉強熱心で信奉者も多く、人望も厚い学生の代表たるエロースだが、やはりアルファ性をもっているためか、段々とヴィティスに対する執着や締め付けが強くなってきた。  最初は年度の途中に留学から戻ったヴィティスを先生から言いつかって面倒を見る係になっていたようだ。  次第にヴィティスに惹かれ始めると自分たちと同じように明星グループにヴィティスが入れるように教師に熱心に働きかけをしたり、取り巻きたちでヴィティスを囲んで他のものから孤立する様に仕向けられてきた。 (いいかげん潮時か。すっぱり諦められるようにここは強めに出る方がいいだろう。幻滅でも何でもしてくれ) 『チョーカーを贈った男のものになる』  その一番言われたくなかった台詞と、朝からの苛つきと、早くスリスと合流せねばならぬという焦りと、チョーカーが常に僅かに首に食い込む息苦しさ、そして目の前の数人の男たちの必死だが姑息な表情が全部重なってヴィティスの我慢は限界に達した。 「俺はさ、君が自分の力で工具を使わずにこのふざけたチョーカーの細工が外せるかどうかを試してみただけだ。それにそもそも親を頼りにしたり、取り巻きで囲まないと俺と話もできないようなやつにこれが外せると思えない。宵の明星生っていうから学内で一番賢い連中だろうし、誰かしら外せるかって思ったけど結局無理だったな? もういい。やっぱり俺が自力で外す。結局この学校に俺より賢そうなやつはいないだろうし、わざわざ君らの退屈な話に付き合うのも無駄だったってことだな」 「なっ! 何て言い草なんだ! 外国から戻ったばかりの君が不慣れだろうからと、俺たちがどれほど君に親切にしたか……」 「色々教えてくれたのはそっちの一方的な善意だろ? 俺が頼んだわけじゃない。それにお前が俺を構うから、無駄に女生徒から強めに当たられて色々と迷惑している。差し引きしてマイナスの方が多い」 「ヴィティス! 君は人の好意をあだにするなんて……。」  エロースのことを嫌いではなかったが、ヴィティスは今までも親切にしてきた相手が急に支配的になってきた様子を何度も見てきた。  こと、アルファはヴィティスの上辺の美しさだけを褒めちぎり、従順で淑やかなオメガとしてまるで愛玩物か、宝飾品でも愛でるかのようにそばにおきたがる。  しかしヴィティスは独立心が強く、強く心に決めている未来の目標がある。将来両親が大切に守っている里に帰って医師として彼らの手助けをしたい。ヴィティスのものの考えとはまるで相容れないのだ。  エロースは学生の代表としてヴィティスに親切にしてくれているのだろうから甘んじて好意をありがたくて受けいれいたのだが、結局いつもと同じようなパターンになってしまったらしい。  これには本当にうんざりとしか言いようがない。 (父さんも、ソフィアリ伯父さんも最後までこの学校に通えなかったから、俺たちには普通の学生生活を送って欲しいって言われた。だからわざわざこうしてこの学校に戻ってきたのに……)  ヴィティス自身は中身は普通の男子生徒と変わらないと思っている。ちょっとばかり頭はよくて一学年早めに進級しているが、それは留学していたテグニ国での単位の取り方の速さがこちらの学校と一年ほどずれているために合わせた結果そうなっているだけなのだ。  しかもテグニ国でもこういった男たちとのやりとりを二度ほど失敗をして痛い目を見て逃げ帰ってきたばかりの祖国で早々このような目に合うとは。 (……なんでアルファは俺をすぐ自分のものみたいに扱おうとするんだ。まずは順序を踏んで愛し合ってって手順が抜けまくってる。父さんみたいに母さんの為に中央での生活すべてを捨てて母さんに尽くして、愛情を注いでくれるような人でないと俺は嫌だな)  アルファ側としてはヴィティスを他のものにとられたくない一心での牽制なのだろう。  考え事をはじめたヴィティスの顔は夕闇に沈んできたがそれでもとにかく周りが見惚れてしまうほど妖艶で美しかった。しかし急に掌を返されて、可愛さ余って憎さ百倍の心地になったのか、明星生代表、つまりは学年主席にも匹敵するエロースは唇をわなわなと震えさせるとヴィティスの手首をつかむ手にさらに力を込めた。ヴィティスは小さく呻いたがお構いなしだ。 「どんな手だって外せばいいんだろ? 少し首が傷はつくかもしれないが、君みたいな恩知らずでも、とにかく顔だけは極上の美人だからな……。チョーカーが外れたら俺がすぐ項に噛みついて番にしてやる。いいから俺と一緒に来るんだ」 「はあ? なんで俺がお前なんかと番わないといけないんだよ? お前みたいな軟弱な男、願い下げだ」  それには日頃はおっとりとしているエロースも取り巻きである他の宵の明星生の前でこき下ろされてプライドを粉々に砕かれてしまった。  そのせいで顔を真っ赤にして激高したエロースはアルファのフェロモンを迸らせ、取り返しがつかぬ言葉を口にしてしまったのだ。 「綺麗な顔で、頭も良くて、名門モルス家のご令息なんて言われておだてられているから、すっかり騙されたな。母方の血のせいか? フェル族なんだよな? その肌の色、野蛮で下品なのはそのせいか?」  それにはヴィティスも、そしてもう塔の入り口まで降りてきて、少し離れた場所から皆の様子をうかがっていたヴァルも差別的な発言に耳を疑う。 (アルファのフェロモン!)  未成年の為低用量の抑制剤だけを服用していたヴィティスは夕方にはその効き目がやや薄らいできてしまう。  猛り狂うアルファのフェロモンを浴びて腰が引け、ゆらりと腰まである黒髪を乱しながら一瞬上半身が揺らめいたのを見逃さず、さらに実力行使に出たエロースはヴィティスを無理やりに肩に抱え上げようとした。  力を振り絞り華奢な身体をよじって逃げるヴィティスを見て、流石に剣呑すぎる様子にヴィティスを助けに行こうとヴァルが前に出ていこうとした。 「おい、この腐れアルファ野郎」  ついに抱え上げられて苦し気に眉を寄せたヴィティスは美貌に似合わぬややハスキーな低い声で押し殺したように呟く。 「く、腐れ??」 「俺の家族を侮辱する奴は絶対に許さない」  瞬間、ヴィティスの瞳の中の金色の環が瞬時に虹彩全部を覆いつくし、宵闇に炯炯と光を放つ。  ヴィティスは抱え上げられた状態から渾身の膝蹴りをエロースの胸に見舞うと、呻いて倒れこむ彼の腕から逃れて、蝶が空を舞うように真っすぐに脚を伸ばして広げて、エロースの両肩に腕をついて空中で一回転をして地面に降り立った。 「ヴィティス! よくもエロースに!!」  あと4人いた青年たちが一斉にヴィティスに飛び掛かってきたが、腹部に蹴りを見舞って、掴みかかってきた腕を取って投げ飛ばした。  あるいは素晴らしい跳躍を見せて顎に足先の蹴りを見舞ったりとそれはもう鬼神のように迫力のある圧倒的な強さだった。  格闘技をこよなく愛するヴァルにとってその強さは美の極みともいえた。  長く退屈に沈んでいた心に火を灯されたような心地になり、ヴァルは高揚感から顔を輝かせた。  ヴィティスの白い衣服の優雅な長い裾が夜目に目立って鋭い残像を描くさまを、助けに行くのを忘れて暫しい惚れてしまったほどだ。  最後の一人も声もなく吹っ飛びエロースの上に落ちた。流石にヴァルも飛び出して行ってとどめを刺そうと振り上げた脚を顔面に見舞おうとしたヴィティスの燃えるように熱い身体を、羽交い絞めにして足がぶらんっと宙に浮くほど勢いよく後ろに引いてとどめた。 「おい、もういいだろ!? 目茶苦茶やるなよ。死んじまうぞ」
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