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「お先に失礼します!」
その日、尚は急いでいた。
終業のチャイムが鳴ると机の上の片付けもそこそこに、同僚に挨拶をしながら職場を飛び出した。
いつもより早足になりながら家路を急ぐ。
外は緑が爽やかな季節で何だか木々が輝いて見える。
自分の気持ちのせいでそう見えるのだろうか。
それも納得である。
それほど今日は楽しみにしていた日なのだ。
「すみません、予約していた岡野ですけど…」
途中で寄り道をして、予約していたものを受け取る。
無事に受け取り、また家路を急ぐ。
ただ今度は受け取ったものが崩れないよう少し慎重になりながら。
住んでいるマンションに着き、エレベーターに乗っている間も気持ちが落ち着かず、ずっと登っていく階数を眺めてしまう。
エレベーターを降り、部屋の前まで小走りで移動し急いで鍵を開ける。
「ただいまっ!」
電気が付いている室内に向かって大きめな声で挨拶をしてしまった。
しまったと思った時には遅く、慌てて口を抑える。
荷物を置いて部屋の中へ入ると妻の依織がソファに座っていた。
こちらを向いて、くすくすと笑っている。
「おかえりなさい」
帰宅の挨拶に返事があるのは何ヶ月振りだろうか。
今まで当たり前だったことがなくなった時に、人は有り難さに気付くというのは本当だった。
帰宅して電気も点いていない部屋に挨拶するのは寂しいものがあるのだと知った。
一人暮らしの時には何とも思わなかったはずなのに。
二人で暮らしてきたこの家だったからこその感情だったのだろうか。
久しぶりに一人ではないのだと胸が熱くなりつつも、少し声をひそめ謝る。
「ごめん、声大きかったよな。望は?大丈夫かな?」
依織は立ち上がり、近くのベビーベッドを覗き込んだ。
「よく寝てるよ、大丈夫」
尚はホッと胸をなで下ろす。
これからは静かに挨拶をすると心に決め、顔を上げた依織達の方へ向かう。
「依織もおかえり」
「うん。ただいま、尚くん」
そう言って笑った依織の顔を見て、新しく始まる生活に少し心が湧き立つ。
依織が望を出産してから初めて、俺たちの家に帰ってきたのだ。
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