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どれくらい経ったんだろう。私を抱き止めていたおじさんの腕から力が抜けた。急いでお母さんに駆け寄る。
「お母さん! しっかりして! お母さん!」
「死んだよ」
頭の後ろからおじさんの声がしたけどそんなの信じられない。だってさっきまでお母さんは私を見て怒鳴っていた。泥棒猫って私を罵っていた。おじさんが邪魔しなければお母さんとちゃんと話ができたのにおじさんが勝手に私とお母さんの間に入ってきてそれで余計にお母さんは怒っていた。怒っていたの。おじさんが邪魔するから。お母さんは。
「実花ちゃん、俺と一緒に逃げよう」
おじさんが私の隣にしゃがみこんで肩を抱いてきた。思わずおじさんの顔を見る。
「お母さんはどうするの?」
「ここに置いていく」
「じゃあ私もここにいる」
お母さんの体を抱きしめる。血が顔についたけどどうでもいい。お母さんの血だから大丈夫だ。
おじさんは少し眉を下げてまた口を開く。
「お母さんは死んでいるよ。ここにいたら実花ちゃんが警察に疑われる。おじさんと一緒に逃げよう」
「…本当に死んじゃったの? お母さん、本当に死んじゃったの?」
お母さんの胸に手を当てるけど何も感じない。お母さんの顔に手を当てようとして首から流れていた血に気づき手を引っ込めた。お母さんはぴくりとも動かない。半目を開けて宙を見上げたままだ。お母さん。
「お母さんは実花ちゃんを殺そうとしたんだぞ。それまでだって実花ちゃんの体を利用してお金を稼いでいた。実花ちゃんはお母さんに売られていたんだぞ。それでもまだお母さんの側にいたいか?」
「でも、お母さん、ありがとう、って。私にありがとうって言ってくれてた」
「それは実花ちゃんに言ってたんじゃない。お金に言ってたんだ。お金になるから実花ちゃんと一緒にいたんだ。実際こいつは俺に何度も言ってきた。『この子を捨ててふたりで一緒に住まないか』って。この女は実花ちゃんを捨てようとしていたんだ。俺に惚れたから実花ちゃんのことが邪魔になったんだよ。わかるか?」
そっか。そうか。そうなんだ。
おじさんに惚れたからお母さんは私に「ありがとう」って言ってくれなくなったのか。
そうだったんだねお母さん。
私はお母さんに必要とされることが嬉しくて苦いのも痛いのも気持ち悪いのも全部全部我慢していたけど、お母さんは違ったんだね。
私が我慢してたから「ありがとう」って言ってくれたんじゃなかったんだ。
私がお金になるから「ありがとう」って言ってたんだ。
そっか。そうか。そうだったのか。
「…私はお母さんに『ありがとう』って言って欲しかっただけなのに」
言葉と一緒に涙がぽつりとお母さんの上に落ちた。すぐに滲んで赤く染まる。私の気持ちもすぐに滲んだ。
お母さんが私を必要としてくれないのなら、私もお母さんを要らない。
死んじゃったお母さんはもう二度と私に「ありがとう」って言ってくれることはないから。
血塗られた顔を眺めてももう涙は出ない。これはお母さんじゃない。お母さんだった何か。
もしかしたら『何か』になるずっと前からお母さんは私のお母さんじゃなくなっていたのかもしれない。私を赤い目で睨むようになった頃からもう、お母さんは私のお母さんじゃなかったのかもしれない。だから「ありがとう」って言ってくれなくなったんだ。お母さんがお母さんじゃなくなったから、だから「ありがとう」って言ってくれなくなったんだね。
私が最後にお母さんを見たのはいつなんだろう。いつからお母さんはお母さんじゃなくなっていたんだろう。
ああそうか。このおじさんが来るようになってからだ。このおじさんが私に痛かったり苦かったり気持ち悪かったりすることをするようになってから、お母さんは私のお母さんじゃなくなったんだ。だからもうずっと長いこと私はお母さんから「ありがとう」って言ってもらえなかったんだ。そっか。そうか。そうなのか。
立ち上がって、お母さんだった物を見下ろす。赤くて汚い。自分の手を見ると、それも赤く汚れていた。おじさんが私の肩をそっと抱く。
「まずは体を洗って着替えよう。それから鍵と財布と携帯を探すんだ。そいつらが見つかったらここから離れた遠くに逃げよう。大丈夫だ。俺は技術工だ。どこに行ったって仕事は簡単に見つかる。実花ちゃんのことも養ってやれるよ」
見上げるとおじさんと目が合った。おじさんが笑うから私も笑った。
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